徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*百段*<夢>2008.5.1

 夢と現実・・・この狭間で人は生きているのか。科学的に言うと心の動き、つまり脳の働きだろう。心という物体は具体的にはどこにも存在しないのだが、私は、よく心という言葉を使うし、心があるとも思う。

 夢を見る。現実を投影した夢なのか、荒唐無稽な夢なのか、私自身は夢の実体を知らない。人間だから夢と現実とか、夢と理想とか考えるのだろうか。あるいは考えられるとか、考えたくないのに考えてしまうといったほうがいいのか。

 人間は一人で生きていくことが、特に現代社会の中では難しい。「人」と「人」という字の間に「間」を書いて人間と読む。との説を時々耳にする。結婚式の披露宴の祝辞などで聞くと「なるほどな」と素直に納得する言葉だ。

 私は何を夢見ているのだろうかと、思うことがある。そして他の人は何を夢見ているのかとも・・・。現実に「生きる」ということが大きく心の中を占め、「夢」を見ることが難しくなっているのだろうか。「生きる」のではなく「よりよく生きたい」と思う心が強すぎるのかも知れない。人の心もお金で買えると断言した男がいた。それが夢なのだ。つまり、かなえられないことを思うのが夢だとすれば、ありえないことを思うのが夢になる。

 夢にも見ていい夢と、見てはいけない夢があるようだ。心の望むままに己の理想を夢見るのは見てもいい夢だ。心を実現させるのが、夢で現実に実現できるものは「夢」とは言えないな、とも考える。その人がどんな夢を見ているのか、それはその人にしかわからない。わからない人同士で生きていくのがこの社会だ。お互いの理解は困難だろう。己の心は己にしかわからないのか。そうだとも思えるし、そうだと思えばまた虚しさも増す。

 音楽を作る人がいて、表現する人がいて、聴く人がいる。その瞬間だけは人は同じ夢を見ることができるのかも知れない。そう信じて表現するのが音楽の表現者としての役割だろうし、指揮者としての私の役割だ。

 夢は長くは見続けることはできないものだ。そうだとしたら、ある演奏会の二時間の本番に魂と心のすべてをかける意味もあるし、現実には実現しないかも知れない魂の夢の時間を共有することができる。夢は物理的なものではない。精神の望むところ、精神の充足にその意味があるのだ。このことは常に念頭に置いておきたい。夢を現実化させない芸術は存在価値がはたしてあるのか。音を浪費するだけとしか思えない音楽表現を芸術といえるのか。音楽をするものが忘れてはならない「表現芸術」の原点なのだ。

 表現者が身を切られるような演奏をしなくて、どうして聴衆に感動を与えることができるのか。演奏の感動は、ひとえに表現者の心の姿勢にかかっているといってよい。わずかの時間の「夢」の実現のためにひたすら力を尽くすだけだ。



 

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