徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*百五段*<音楽表現の原点>2008.5.7

 BS放送での「みなみこうせつ」の武道館ライブを吸い込まれるように見ていた。三十何年か振りの武道館コンサートといっていた。デビュー当時のヒット曲とともに、2007年作曲の曲も歌っていた。不思議なことに、雰囲気が昔と変わらないから新曲でも昔聴いたような感じで聴くことができる。違和感のないコンサートといってよいのか・・・。年代的に私と近い人だ。会場の聴衆の人たちも何となく平均年齢は高いような気がする。しかし、エネルギーというか、迫ってくる音楽はダイレクトに視聴している私にも伝わってきた。クラシックのジャンルとは違うが、ジャンルをこえて魂を揺さぶる音楽の表現があるのだとも納得した。

 主役は歌手本人だが、周りのプレイヤーがすごい。腕ももちろんすごいし、それよりも音楽を表現しようとする心がすごい。楽しみ、そして手を抜かない、そんな当たり前のことを自然にやっている。主役を立てる引き立て役かも知れないのに、時には主役以上の実力を見せる。プロとしか言いようがない。いままでも、瞬間で勝負をしているスタジオミュージシャンの実力を眼の前で見たこともある。見方によっては、給料をもらっている演奏家のほうがいつの間にか、演奏が習慣的になってしまっているかもしれない。

 クラシック音楽の世界は、自縄自縛に陥っているかなとも思う。オーケストラの収益で言うと、必ず赤字になるという前提での楽団経営が当たり前の時期があった。期待するのは、補助金か企業メセナか。企業が手を引き、金銭的に成り立たなくなった楽団の分裂や、事務局責任者の入水自殺という悲しい報道は私の記憶にいまでも強烈に残っている。そんな中で現在の姿があるわけだが、それでも、無気力なルーティーンな演奏に出くわすことがあるのが事実だし、そのことを本当は信じたくないのだ。時間と金銭の負担をして聴衆として会場に足を運ぶ人のことを考えれば、無気力な演奏を出来るわけはないと思うのだが・・・。

 日常として慣れてしまうことは、どんな仕事でもありうるし、人間が陥りやすい落とし穴でもある。私もそう思えることがあり恥ずかしい限りだ。繰り返しになるが、今日のテレビを聴いてみていて感心したのは、無論主役の歌手は当然としても、そのバックを務めるミュージシャンだ。モチベーションを高め、決して仕事という義務での演奏ではないことが伝わってくるのだ。私は、その姿を己に取り入れたい。指揮をする原点として持っていなければならない、必須の能力として・・・。

 演奏会という限られた空間と、わずかな時間の共有の瞬間をどれほど大切に思えるか、音楽表現の原点はその思いにあるのだと思える最近だ。生きることのできる有限の時間を費やしての指揮の場面だ。安易に流されることだけはしたくない。




 

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