徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*百九段*2008.5.19

 田園について四回目の徒然草になる。実はいま、コンビチュニ―指揮のライプツィッヒゲヴァントハウスの演奏を聴いている。納得の演奏だ。高校生の時に感じた朴訥な印象は変わらない。感覚は時間を経ても変わらないことがわかった。高校生の時はそれを受容できなかった。朴訥でもあり、しかし力強い演奏だ。ベートーヴェンの期待したのはこんな演奏かも知れない、と今では思える。

 おそらく、ベートーヴェンのいろいろなエピソードから想像するに、そんなに洒落たスマートな都会的な音楽を書いたとも思えないし、強固な意志や、頑迷さは十分あっただろう。本人に会うことはできないから、今では想像をたくましくするしかない。前段で、ベートーヴェンの他の交響曲とは違う異質な交響曲として田園を理解していると書いたが、それは誤りかも知れない。第二楽章の平和な光景の描写の極みと思える楽章でも、コンビチュニ―はまさしくベートーヴェンを表現している。美しさやスタイルを表に出したカラヤンや現代の指揮者の表現とは対極をなすものだ。

 しみじみとこの曲の持ち味を味わえる演奏といっていいだろう。これはお薦めの演奏だ。田園と言えば、昔はワルター・コロンビア交響楽団の演奏が、レコードでの誰もが推薦する名盤だった。この演奏が田園のあるべき演奏だと思っていたし、それは時を経た今でも変わらない。その後にベームや、カラヤン、イッセルシュテット、セルやクリュイタンスなど多くの指揮者が、それぞれの個性を発揮した名演奏を録音している。

 ベートーヴェンの曲だけは、枯れた演奏では通用しない。名指揮者でも最晩年の演奏は痛々しい。ベームの最後の録音であるウィーンフィルとの演奏が、それを物語っている。ベームは日生劇場のこけら落としの公演のために来日し、歌劇「フィデリオ」をはじめとする名演奏で日本のファンを魅了した。その後もウィーンフィルと何回かの来日をした。その中で最後の来日の指揮だけは悲しくて見ていられなかった。それは主に肉体の衰えから来るものだ。演奏者の音より後に振られる指揮棒・・・これを悲しいと思わなくてどう思うのだろか。この老いてしまった時の演奏を名演奏と評する人は多かったが、私にはそれは理解のできないことだった。

 精悍な時代の指揮を見て、何十年か後に最晩年の指揮を見る。それは正直辛いものだ。イゴール・マルケビッチ、ロブロ・フォン・マタチッチ、カール・ベーム、オイゲン・ヨッホムなどが記憶に残る。映像は人の衰えを残酷に映し出す。映像だけでなく音にもその衰えが現れる。厳しい、かつ悲しい現実だ。二通りのケースがある。ミュンシュ、モントゥー、セルなどの指揮者はその老いた姿を見せずに物故した。私の中では、精悍であくまでも若々しい彼らの指揮の姿が脳裏に残っている。思えば、表現者としての指揮者の存在は華やかに見えてはいても、悲しいものとも言えるかもしれない。




 

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