徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−

*百十一段*<人間管見−2−>2008.5.22

 今まで出会った人の顔を思い出してみる。何が一番記憶に残っているかと考えてみる。懐かしく思い出されるのは「えがお」だ。私は顔相を重要視する。その人が発する言葉よりも顔相だ。言葉には嘘もあるだろうし、心にもない言葉も使おうとすれば使える。お世辞というやつだ。残念ながら、多くの人はお世辞と分かっていても、自分を心地よくさせてくれる言葉にはころっと騙される。私も騙されるかも知れない。そこで登場するのが顔相だ。

 具体にいうと、笑う時の顔を見る。「破顔一笑」という言葉がある。屈託なく笑っているか、だ。顔の皮膚は動いていて、笑っているように見えても目は笑っていない人もいる。笑った時に口が歪む人もいる。だいたい、実はほとんど笑っていない人は意外と多いのだ。イメージで無意識に笑っている、と思いこんでいることも多い。その証は、あとで、思い出したい人の笑顔を思い出してみるのだ。楽しそうに笑っている笑顔が目に浮かぶ人は、信用できる人だといっていいかもしれない。私の長年の分析の結果だ。それに、渋い顔を思い出すよりも笑顔を思い出せたほうがはるかに楽しい。だから笑顔はいい。

 人間は感情を持っている。理屈を超えたところに感情が位置するので、そのコントロールはなかなか厄介だ。他人の不幸は蜜の味、という言葉もどこかで聞いたような気がする。感情が勝ってしまえばそれが顔にも出るだろう。それは仕方がないことだ。その感情に「悪意」があるのかどうか、これは大きな問題だ。悪意は己の心にとどまらず、他のの方向へその矛先を向ける。それは否応なしに、人と人との対立に至る。情けないことだ。


 亡き、古谷武雄先生は厳しかったが、笑顔には邪気がなく、いまでも思い出すと心が温かくなる。亡父もそうだった。お酒が少し入った時に見せる、笑顔が忘れられない。葬儀の時、東北の仕事関係の方から頂いた弔電に「・・・在りし日の、高橋先生の笑顔が目に浮かびます・・・」と書かれたものがあった。私は「・・・在りし日・・・」「・・・笑顔・・・」の文字に胸が詰まった。その時に、父はもういないのだと実感した。

私は、時々私の顔を見る。「醜い心はないか、ひねくれた心はないか、嫉妬心はないか、人を憎んではないか」などと、全体的に見てみる。目つきや顔つきが悪くなったり、あやしくなったり、卑屈になってきたと思ったら要注意だ。それは自分で直す。自分は自分、人は人、ということさえ言い聞かせていれば、嫌な心も生まれないか、はずみで生まれてもそれを打ち消すことができる。

 「徒然草」はその名の通りに徒然なるままの文が書けるのがいいのだが、話が飛んでしまうのはお許し願いたい。

 さて、周りを見てみれば、相変わらず、毎日、振り込め詐欺や、食品の偽装、使いまわし、理解のできない殺人、など考えると腹立たしさだけがわいてくる。果たしてこの国の現状は、言葉では表せない末期的現象なのか。




 

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