徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百十六段*<人間管見−3− 疑問・んんん・不思議・???>2008.5.27

 25日に千秋楽を迎えた大相撲の話題が、新聞やテレビを賑わしている。横綱同士の結びの一番での出来事だ。あ、これを書く前に私は特に相撲ファンともいえないし、どちらかの横綱のひいきとかではないことを明言しておかねばならない、かもしれない。

 勝負はあっという間について、負けた方は土俵に四つん這いになり、勝ったほうがさらに追い打ちを掛けてそれを押した、という内容だ。追いうちをかけられ押された方も憤然として、立ち上がる時に肩をぶつけた、というように新聞に書かれていたし、テレビの映像でもそのとおりだった。この件について相撲協会の理事長が、「流れ」の中での出来事で、だめだしというか追い打ちをかけた横綱に問題なし、憤然とした負けた横綱に注意を与えたことで、横綱審議委員会は理事長見解に異論を唱えた。

 画面を見ていて思った。横綱だから、誰よりも俊敏な運動神経を持ち、誰よりもすぐれた動体視力を持ち、誰よりもすぐれた筋力を持つからこその手に入れた地位だろう。相手が倒れたり、土俵を割ったりしていれば、取り組みをしている当時者が一番分かるだろう。分かれば、瞬間に体も反応するだろう。それだけの運動神経はあるだろう。そう考えれば、あの「だめだし」は、やはり「駄目だし」と言わざるを得ないだろうと・・・。相撲では、選手とは呼ばずに相撲取りという。いずれにしても、それを生業にしているプロだ。知らないうちにプロになっていたというものでもないだろう。素人の相撲ならともかく、プロの取り組みに「流れ」で負けた相手にさらに追い打ちはないだろう。理事長見解の「妥当」とはあり得ないだろう、と素人の私は思った。

 学校現場で「いじめ」の解決の過程で、似たようなことが起きる。いじめと感じた子どもが教師に訴える。教師はだいたい次のように双方から事情を聴く。多くのケースでは、いじめをした方は「そんなつもりではなかった」とか「その言葉で相手が傷つくとは思ってなかった」とかの弁解をする。学校教育のプロであるはずの教師もその言葉を信じ、結局はあいまいな解決方法しか取れない。これでは「いじめ」の解決にはならないのだ。

 人は完全な存在ではない。欠点も多い。いやしい心も持っている。私自信がそう感じることもある。小学校高学年の子どもや中学生になった生徒が、相手が傷つくことや、傷つく言葉を「無意識」にやったり、言ったりすることが本当にあり得るのか。本当に「無意識」だったのか、心の奥底にひそむ「いじめたい」という意識はなかったのかを深く掘り下げるべきなのだと私は思う。通り一遍のヒヤリングだけで終わらせるのでは、いじめた方もいじめられた方も、その経験を自分の成長の糧にすることができないではないか。

 前段での、プロフェッショナルとは・・・「心・技・体」のすべてを持っている人、との答えを例に挙げた。「心・技・体」この順番が真理を物語っている。技も体も、心が伴わなければただ虚しいだけだ。人間のだれもが持っているだろうと思われる「憶隠の情」はもはやないのか、強ければいいのか、弱肉強食がまかり通るのか、大げさな言い方かもしれないが、正直、暗澹たる気持ちになっていく。



 百十五段へ   百十七段へ