徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百十八段*<邂逅…県民合唱団>2008.5.31

 県民合唱団の「ロ短調ミサ」の録画を見ることができた。合唱団は20回以上の練習を積み重ね、250人以上の公募の県民合唱団だ。本番前、指揮者との合唱練習は2回、ゲネプロが1回、当日のステリハ1回での本番を考えると、プロと同じくらいの本番前の合わせの回数と時間だ。

 合唱団の頑張りが、画面と音から伝わってくる。県民対象の公募の合唱団を組織すると、団員になられる方は、若い人よりも年配者が多くなる。声を聴いただけではそうは思わないが、画面を見ればそう思う。しかし、伝ってくる音楽は「若い!」。歌っている姿にも、胸を締め付けられるほどの思いが伝わってくる。人生の数々の出来事を経験してきて、いま、ロ短調ミサを歌うために集まっている。初心者のような初々しい人から、おそらく若いころに経験をしただろうと思われる人、何回もこの曲を歌ったことのある人・・・雰囲気がそれぞれにあり、それも魅力の一つになっている。

 この姿は、なぜかプロの姿とはまた違った姿だと思う。プロのような絶対の技術に裏付けされた自信とはちがう、必死さが伝わってくるのだ。音楽の表現は技術だけではない、ということを実感させられる。もちろん、表現にはそれ相応の技術が必要なのを前提としてのことだ。音楽の技術が絶対的なものだとしたら、俗に言う「プロ」の人しか演奏ができなくなる。それもひとつの表現だし、アマの人たちの表現も一つの芸術だ。私は必死にさえ演奏すれば、技術はどうでもいいといっているのではない。音程の合わない演奏を長時間聴くとしたら、だれでも快くは感じないだろう。そうではなく、聴くに値する演奏をするために練習を積み重ねるわけだから、それに応じた力量だってついてくる。その成果をもってすれば感動の演奏も可能だといっているのだ。

 出てくる「音」、伝わる「心」、曲への「共感」、表現する「エネルギー」、このことが満たされるなら音楽芸術にプロとアマの差はないといってもいいのではないか。あまりにも技術の伴わない演奏にはがっかりすることも当然だし、技術はあっても、心のこもらない、義務的な演奏にがっかりすることもままある。そんな演奏会はたいてい料金も高額な時が多いから、がっかりから、腹立たしくもなる。

 さまざまな人生経験を重ね、職業も様々で、おそらく一人ひとり役職も違うのだろうし、250人が集まれば250通りの人生があるということだ。その人たちが、バッハを歌うために一同に会した。これこそが「邂逅」だ。そんな人たちを前に指揮ができるとは、何と私は幸せなのか。一緒に音楽を奏でた人たちに感謝をしなければならないし、その巡り合わせを実現してくださった「神」というべきか、目に見えない力にも虚心から感謝をしなければならない。同じ人たちと、同じ時間を共有する機会は、一生の一瞬でしかないのだ。演奏会が終われば、またそれぞれの人生を歩む。それが人間だ。貴重な一瞬に思いを寄せることのできる私は幸いだ。



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