徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百二十段*<フィッシャー・ディースカウの「冬の旅」>2008.6.4

 梅雨に這入った。今日はつかの間の晴天だった。偶然にシューベルトの「冬の旅」のVTRを見つけた。ほかの録画を探していたのだが、このテープが偶然見つかった。成人になってから、三回の転居をした。記録は、なぜかそのたびごとに少なくなっていく

 北向きの部屋に置いておいたテープのうち、かなりの物にカビを発生させてしまった。私の気の使い方が足りなかったのだ。そして、それは必ずしも音楽第一の考えや生活をしてこなかったことの証明でもあるし、事実でもある。(これを認めるのは悲しいのだが)


 思い切って映像の見えないテープを廃棄していった。本当に思い切ってだ。その残しておいた中に、このVTRがあった。「冬の旅」はその表題のとおり、冬に聴くのがふさわしい曲ともいえる。今日、無性に聴きたくなって聴いてみた。少し気温の下がる梅雨の時も、聴く気候にふさわしいと思った。

 1987年の録画だ。21年前、サントリーホールでの演奏会のものだ。バリトンソロは、「ディートリッヒ・フィッシャー・ディースカウ」62歳の演奏だ。失意の青年が家を捨て、故郷を捨て、まさに「冬の旅」に出る、その時の感情を詩と音楽にした曲といってよいだろう。感情描写を声で表現しなければならない、おそらく声楽家にとって挑戦に値する代表的な曲だろうし、聴くほうにとっても、その青年の思いとひとつになれる、憧れの曲という人も少なくないはずだ。

 この日のディースカウの演奏は、この曲の極めつけの演奏だ。これ以上の演奏はないし、これからだって出てくるとはとても思えない。9回目の日本での演奏だ。CDとはまた違う臨場感が映像から味わえる。1曲目の「おやすみ」から24曲目まで、少しずつ集中力が増すソリストの様子が心を打つ。それに、気持ちと表現が一体化したこの完璧な演奏は、「なぜ、できるのか?」という疑問さえ抱かせる。

 この、「生きる」とか「人生」を感じさせる根源は何なのだろうか。そして、ディースカウと比較するのも恥ずかしい、己の姿を見てしまう。この演奏から21年の時間が経っている。私はその時間をどのようにして過ごしてきたのか・・・と考えれば、無為に過ごしてきたのだといってもいい。何と言うことだ。日常に追われ、追われることに満足を見出していたのだ。いや、無理やりにそう思うように仕向けてきたのだ。己の心を・・・。それが、とりあえずは、厳しく己の心と向き合わなくても済むからだ。

 そんな自分を戒めてくれる演奏だった。時間の無常も感じるが、音楽の偉大さと、演奏家の偉大さを改めて思い起こさせてくれる一本のテープだ。私の中での何よりも代えがたい宝物を見つけた思いだ。


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