徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百二十一段*<映画「アマデウス」>2008.6.5

 前段と同様に、ふと目に入ったVTRがあった。「アマデウス」だ。1984年くらいの作品だから20年以上も前のものというこことになる。

 何回か見た作品だが、このところ全く見ていなかった。見てみた。15年ぶりになるのか・・・。さすがに良くできた映画だと、改めて感心した。ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト・・・誰もが知っている不世出の天才作曲家と当時の宮廷作曲家サリエリに焦点を合わせ、モーツァルトの死の謎に迫る。新しい解釈だ。大胆な解釈だという方が的を得ているかも知れない。

 モーツァルトの時代に生きている人間は現在はもちろん居ないのだから、研究の観点か想像の観点かで推測していくしかない。このサリエリとモーツァルトに着目したところが斬新だった。ミロス・フォアマンの監督、モーツァルト役がトム・ハリス。とにかく説得力のあるドラマになった。冒頭の交響曲の20番から全編モーツァルトの旋律に満ち満ちていた。

 最後の作品となったレクイエムは、確かに「涙の日」の途中で筆が絶えた。このときのサリエリとのやりとりが凄まじい。作曲家の執念として画面に引き込まれてしまう。死のベッドでモーツァルトが絶え絶えに旋律を歌い、和音を指示する。それをサリエリが五線譜に記入してゆく。そして、そのラクリモサ(涙の日)の中途でモーツァルトは息をひきとる。サリエリはモーツァルトの才能に嫉妬し、しかし同時に限りない憧れを持っていた、このことを感じさせる場面だ。作曲を依頼されての「レクイエム」(死者のためのミサ曲)なのだが、結果はモーツァルトが自分自身のために作曲する鎮魂ミサ曲となった。それも、ちょうど曲の真ん中あたりで筆を下すことになるとは・・・。
 残りの部分は後に弟子のジェスマイヤーが作曲をして完成させる。終わりの部分にモーツァルトが作曲した最初の部分の「キリエ」の旋律を使い、統一感を持たせて終わらせている。何回か指揮をした経験では、後半の部分の密度が薄いというか、湧きあがるようなモーツァルトらしい神を暗示させてくれるまでには至らない気がした。それはモーツァルト自身でしかできえないことだから仕方がないのだとは思う。それを差し引いてもレクイエムの名曲なのは間違いない。

 偉大な音楽家の映画はいくつも作られたが、ややもすると真面目な側面が強調され、音楽愛好家はともかくとし、そうでない人には退屈な作品が多かった。この「アマデウス」だけはだれが観ても引き込まれるだろう。それだけのドラマ性とテンポの心地よさが際立っている。天才の極みのモーツァルト、普通の才能のサリエリ・・・芸術の残酷さが伝わる。



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