徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百二十三段*<素直に>2008.6.9

 自分の単純さに気づくことがある。テレビドラマを見ていてそう思うことがある。去年の秋ごろにこの徒然草で、大河ドラマ「風林火山」のことを書いた記憶がある。仕事で少し遠くに出掛ける時に車中で書いたものだ。主人公の山本勘介の生き方に単純に感動し、共鳴していた時だ。映画やドラマは、現実とはかけ離れたものがいい、というのが私の持論だ。現実と似たものは現実で味わえるし、今更、時間とエネルギーを使って見ても意味がない。現実を生きるだけでも大変なのに、ドラマでもそれを追体験するなんて・・・。現実にあってほしいと思いながらもそれはかなうはずがない、くらいのポジションでのドラマが納得できる。

 私の思考が単純なのだ。「グッド・ラック」「プライド」に心が躍り、あ、その前に「ホテル」もかなり楽しめた。「華麗なる一族」や「アンフェア」にも一体感をもち・・・結構、キムタクのものが出てくる。その流れで書くと「チェンジ」だ。このありえない設定が、しかし、あってほしいとも願えるし、もしかしたら・・・なんていう思いを描くこともできる。こう書くと軽いやつだと思われるかも知れない、という少しの恐れを持ちながらのこの文章だ。ある年齢になれば「軽い」とは思われたくないし・・・。

 まともなことをまともに言う「朝倉総理」ってかなり魅力的だ。(魅力を間違えて入力すると弥勒になる。弥勒菩薩も相当の魅力だ。あんまり関連がない文だが。)

 自分と違う人格を認められる人間になりたい。そう心掛けている。許せないのが、誰かが自分と違う人間である私を攻撃してくることだ。それも、陰で。自分はこだわりがないのに、他の人が自分にこだわりを持ってしまった時、このときの対処が難しい。自分の不徳を認めて、攻撃にひたすら耐えるか・・・、その限度の判断が難しい。そこで、現実とは距離を置いたつくりのドラマや映画が役に立つ。時代劇でも同じだ。「たそがれ清衛兵」(ちょっと字が違うかも)、「隠し剣・鬼の爪」「武士の一分」からも多くのものを得た。

 さて、結論は「素直に」だ。「まともだと思うことを、まともに表現する」ということに尽きる。自分から相手を攻撃することは決してしない。しかし、相手からの攻撃を受けた時は、ひたすら忍耐だが、限度を超せば「降りかかる、火の粉は払わねばならない」だろう。なぜ、そうするのか、それは、私は私一人で生きているのではないからだ。私の周囲の人間にも結局、その被害が及ぶと判断したら、それは無条件で反撃を試みるしかないだろう。というようなことを教えてくれるフィクションのドラマと映画は、私の心の必需品だ。

 昨日、秋葉原で悲惨な事件があった。当事者では防げない、しかし、人為の事件をどう防ぐのか、他人を思いやる心を失くした社会は悲惨だ。日本人の多くが持っていたと思われる「惻隠の情」を全く感じられなくなったのはいつからだろうか。家庭、学校、社会の教育力の結果か?「弱肉強食」これでは、動物と同じだ。




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