徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百二十四段*<人生の先達>2008.6.11

 フィッシャー・ディースカウの「冬の旅」の続きだ。シューベルトのこの歌曲集を何回か録音していると書いたが、七回録音をしていた。1955年から1990年までの間だった。

 何人かの演奏家は、とりわけ同じ曲を何度も録音を重ねている。指揮者のヘルベルト・フォ ン・カラヤンもそのひとりだ。ベートーヴェンの交響曲全集を確か四回は録音しているし、チャイコフスキーの後期の交響曲も三回は録音をしているだろう。カラヤンの場合、初めはウィーンフィルやフィルハーモニア管弦楽団での録音、ベルリンの音楽監督になってからはベルリンフィルと繰り返しての録音を重ねている。

 ゲオルグ・ショルティは、やはり最初はウィーンフィルとで、途中でロンドンやイスラエルフィル、パリ管弦楽団などを挟み、晩年はシカゴと再録音を重ねた。若くして逝去したケルテスも、ウィーンフィルとの新世界交響曲での録音デビューだ。彼はドヴォルザークの交響曲集をロンドン交響楽団と再録音している。アバード も、最初のレコードデビューはウィーンフィルとのベートーヴェンの七番のシンフォニーで鮮烈な印象を残した。カラヤンと同様にベルリンの監督に就任してからは、その多くの録音をベルリンとしている。ベートーヴェンの交響曲もウィーンフィルとベルリンフィルとで録音している。

 これらのことを考え合わせると、デビューには当時のレコード会社の思惑がうかがえる。ケルテス、アバードもともに当時の英国デッカからのデビューだ。そしてオケはウィーンフィル、遠くは、ショルティもそうだった。確か、ショルティはベートーヴェンの三番と五番のシンフォニーで強烈な演奏をして英国デッカから、日本のレーベルではロンドンから発売された演奏が特に記憶に残る。松脂が飛ぶのが見えるほどに当時の録音が生々しく、そして演奏も激しいものだった。晩年のショルティのシカゴとの演奏も残っているが、このウィーンとの録音の演奏があまりにも鮮烈だ。新進気鋭の演奏と、円熟の演奏、あるいは晩年の枯れた渋い持ち味の演奏、それをどう評価するのか、難しいことではある。

 演奏家はそれを悟って、その時その時のベストを記録したいのかも知れない。その年代にベストと思った演奏が確実にあるのだろう。ただ、音楽表現の厳しい現実として、肉体の衰えと精神の衰えが必ずしも一致しない事実がある。どちらとも整合性がある年代が演奏家としては、幸せな年代だといえようか。

 それでも、例外はある。カラヤンが足が弱り、指揮をする時に、腰かけに腰をかけながらの指揮を見た時に、指揮の技術でも気迫でも若い時に勝ると感じたことがある。カラヤンは老いを感じさせることなく、晩年も見事に指揮をしていた。ミュンシュもそうだ。ショルティも・・・。三人とも壮年期にエネルギッシュな指揮をしていた。それだけにそのイメージを壊すことなく晩年も指揮をしていたことに、彼らの意地やロマン、指揮者としてのプライドを感じざるを得ないのだ。

 チェコのバーツラフ・ノイマンは、衰える前に、自ら指揮活動をやめた。勇気のいることだろう。そう・・・、自らのことを自らが決める力があるうちに決めておく。
 これは私に取っても、生きる上での必須のことだ。演奏家が録音を重ねることから書いたこの文章だが、違う方向の文になってしまった。どの世界でもその道を極めた先達の存在は大きい。彼らは、私にとっては音楽の先達といいうよりも、まさに人生の先達になってくれている。




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