徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百二十八段*<想い出の断層−42−>2008.6.30

 ある学校のオケの演奏会に行った。そのホールでの演奏を聴くのはこれが最後かとも思い、比較的遠方だったが、是非に・・・と決め、会場に向かった。何年か前にも聴きに行った会場だ。駅から道に迷うこともなくホールに着いた。途中、何年か前に入った日本そばの店があり、そこも変わらず営業していた。

 息子が入っている学生オケだ。新入生の時に聴きに行った。今回は前列三列目に座った。団員が出てきた。息子もいた。ふと、感慨が私を襲った。演奏を聴く前に、新入生の時よりも確実に成長した息子の姿を見た。

 アリスの「群青」の詩が頭に浮かんだ。・・・映画「203高地」の主題歌だった曲だ。「・・・君を背負い歩いた・・・温もりだけが背中に残っている・・・」という詩だ。この曲を聴いた時には息子はまだ小さく、文字どおり背中に背負っていた。ああ、いずれ、この詩のような思いを持つのだろうか、と何気なく聴いていた。それは遠い先のことだと思っていた。

 詩人「尾崎喜八」の「されど同じ安息日の夕暮れに」も思いだした。孫娘、美沙子さんへの思いを詩に託したものだ。その中に「・・・いまは、抱くことも背負うこともかなわなくなった・・・」という部分がある。その孫娘が、老いた自分のためにバッハのオルガンコラールを弾いてくれている。そして、やがては自分がこの世から消えた時に、同じようにオルガンコラールを弾いてくれるのだろうか・・・。

 二つの詩は、私の中では遠い世界だった。しかし、それは現実だったのだと、なぜかこの演奏会の日にしみじみと思った。もちろん背負うことも抱くことも、ずっと以前からできはしない。身長だって私を超えてしまった。この日は、精神的にももう抱きかかえることはできない・・・と思った。小さいころのぬくもりを思い出した。さびしかった。

 父親として、やはり失格だったかも知れないと思った。思春期の成長の時に、仕事にかこつけてあまりに接することが少なかったことを悔いた。献身的に育児をした母親の方が、やるべきことをなし終えた充足感があるのだろう、子離れがしっかりできていると感心した。手を差し伸べるべき時に手を差し伸べず、自分に時間ができたからといって手を伸ばしても、それは息子にとっても迷惑だ。演奏を聴きながら、そう反省もした。

 同じ年代の若者たちが演奏するオケだ。演奏技術の差はあっても、熱い心は十分に客席に伝わってきた。なんとも言えない満足感と、一抹の寂しさを持ちながら帰途に着いた。

 この日は、私の中で忘れられない日になった。―よみがえる断層―そのものだ。



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