徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百三十段*2008.7.2

 また、か、またまた、か、また、ドラマの話になる。「モンスター・ペアレント」が始まった。時代の要望か、時代の鏡か・・・。逼塞状態のものが、ドラマになるのはよくあることだ。そう思えば「チェンジ」しかり「モンスター・ペアレント」もしかりだ。

 学校教育の現場は様々だ。地域によって正反対といってもよいくらいの落差がある。ドラマで描かれているような状況は、地域によってはかなり前からあるのだろう。視聴率の上がりそうもないドラマは作らないだろうという前提に立てば、かなりの関心や興味がある題材をドラマにするだろうと思うからだ。

 民主主義を標榜する現代だ。民主主義の実現には、多数の支持が必要だ。教育の現場は難しい。教育には「伝統の継承」と「新しい文化の創造」という、相反するともいえる二つの側面があるからだ。「継承」と「創造」…この二つは相反するが故に、教育が担わなければならない宿命だ。

 「自分の子どもは、親である私が守らなくて、誰が守るのですか」・・・この言葉の解釈も難しい。自分の子どもを親が守るのは、人間も動物も、すべからく同じ思いの世界だ。それを声高に云わねばならないとは・・・。「守る」ということ自体は、ひっそりと守るのが親の姿勢かなとも・・・「さりげない」という言葉で表わされる文化がなくなりつつあるのでは、と思う。「声を張り上げて、自分をアピールする」ことが正しいという、価値観・・・古来の日本の文化にはなかったことだ。

 「節度」とか「許す」とかの、温かい、ぬくもりを感じる社会はどこへいってしまったのか。学校教育を軽んずる中で、社会や国の発展はありえないだろう。競争がすべてか、勝ちがすべてか、そんなことはないだろう。人生の勝ちや負けは、そう簡単には決められないはずだ。

 人間の知識と心を育てる教育の最前線は、さぞかし厳しいものと想像する。これも、前述の内容と共通する。つまり、知識の伝授や、教科の学力と、心を育てることには相反する要素がつきまとう現実があるということだ。逆のものを同時に得ようとする神業を教師が担わなければならないとしたら、託す方も覚悟をきめて託すべきことはたくし、託された教師は覚悟をきめて託されなければならないだろう。

 業績評価がなじまないからといって、全面的に否定することもできないだろう。しかし、営業成果を評価するのと同様には、教育活動の評価はできないということも事実だ。

 現在の教育委員会制度の中で、揺るぎない信念を持って教育行政や教育現場を担う「長」は現れないのか?組織があっても組織の素は一人ひとりの個人のはずだ。「任せろ」「任せた」の阿吽の世界は、学校教育では夢なのか・・・。



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