徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百四十段*<自由に、しぶとく>2008.7.29

 7月の後半から8月半ばすぎまでは、スポーツでは高校野球、高校総体、音楽では吹奏楽コンクール、学校音楽コンクールが大きな行事だという意識が働く。試合やコンクールだから、出場校がしのぎを削り競い合う。結果はつきものだから時に残酷なこともあるし、反面感動も大きいのも事実だ。さて、その場面に挑む生徒や教師を、周囲はどれくらい理解をしているのだろうか?とふと思う。

 それぞれで状況は千差万別だろう。その中での切磋琢磨だ。最初からハンデを背負うこともあるのだろう。せめて、上司が理解を示してあげられれば、千万の味方を得たようなものだ。子どもと教師が目標を共有し、目標達成の努力をしているのだ。まれに自己顕示のためにコンクールや大会を利用しているのでは・・・と思われる教師もいるが、ごくわずかだ。みんな名もなく貧しく美しく、努力を重ねているのだ。授業しかやらない教師よりも、よほど尊い教師たちだ。自由にさせて応援してほしいと心から願う。

 ひとりの人間のやれることには限度がある。スーパーサイア人のような存在でも例外はない。であるからこその組織であり、組織の長の役割もあるのだ。現場のことは現場の人を信じて、自由に活動する時間と精神的な支えの役割をするのが「長」の役割だろう。

 中途半端が最悪だ。部下が行動に迷う。疑心暗鬼や不信感を持ったときが、教育現場ではまさしく危機なのだ。中途半端に管理に走る管理職が多いのだ。それが、最後には体罰や不祥事につながることを知らない。人の心の働きは微妙だ。放任でも不安になり、あるいはすべての自己管理がきつくなる。反面、管理しすぎてもだめだ。個人を管理しきれることはあり得ないし、使うエネルギーの割に効果は上がらないのだ。

 「長」は、部下に「任せる」「信頼する」「責任を負う」これが必須だろう。とある市で細かなことを言う教育長と部長がいた。校長室の机は子どもを観察できるように、また、不審者を発見できるように窓側に向けろ、と指示していた。100近くもある学校の校長室の配置は様々だ。それを考慮せずに机の向きの指導までする、この愚かさに笑いが出そうだった。校長を束ねる教育長だ。もっと違う指導の観点があるだろう。現実の「長」はこんなものだ。

 不幸な出会いは多くの場合、若い人を不幸にする。幸せな出会いは多くの場合、若い人を幸福にする。出会い一つで天と地ほどの差ができる。不幸な出会いはなるべく短く済ませ、幸せな出会いを求めるべきだ。容量をこえた精神の負担はそのひとの心をむしばむ。三万人を超える自殺者の数がそのことを物語っている。ひとつの固定観念に縛られないことだ。

 そこそこの忍耐力をもって、心に従って自由に生きる。これこそが人の生き方だという思いを強くもつ最近だ。「人間、何事も忍耐だ」とは、理想やきれいごとだ。自由にしぶとく生きる、この考え方を若い人に薦めたい。



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