徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百四十六段*<音楽の聴き方>2008.8.27

 猛暑の気温が急に下がってきた。あの蒸し暑い日の連続がうそのようだ。オリンピックの終わりとともに今年の夏も終わりかな・・・と、ふと思った。セミの鳴き声はまだ聞こえるので、もう少しの間は「夏」を感じられるだろう。これで夜になり、虫の鳴き声が聞こえ始めると、もう「秋」そのものだ。


 不思議なもので、暑い時には音楽が頭に浮かばなくなる。仕事の音楽は別だが、ことさら音楽を自室で聴くという気持ちも起こりにくい。気温に心が負けてしまうのか。私は、今年の暑さには心が負けてしまった。
少し、涼しくなるとベートーヴェンを聴いてもいいかな・・・という気持ちがわいてくる。ただ、この場合の聴き方も、スコアを見ながら、という聴き方になる。

 生の演奏会では、もちろんスコアを片手に演奏を聴くなどという野暮なことはしない。これが自室だとどうしてもそうなってしまう。ひとりで、かつ、オーディオ機器での再生音を聴く時、という条件では確実にそんな聴き方だ。

 高校生の頃からレコードを購入し始めたのだが、いろんな曲を幅広く買うよりは、一曲のいろいろな演奏を聴き比べるように買っていた。ベートーヴェンの「第五」交響曲がその最たるものだ。その頃は「第五」と呼ぶより「運命」と呼んでいた。「運命がこのように扉をたたく」と、ベートーヴェンが弟子のシントラーに言ったとか・・・。なるほど!と納得し、私の中では「運命」だ。人に話すときは「五番」という。一応・・・。

 「運命」は第一楽章の冒頭から、とにかく演奏の違いがわかりやすいのだ。「ジャジャジャジャーン」という四つの音の表現が、指揮者によってそれぞれ違う。結構重々しく入るのが当時は好きだった。微妙に合わないフルトヴェングラーの冒頭になんともひかれた。明瞭、明解、颯爽と演奏されるカラヤンやセルには深みがないなどと、深みのないことを自分で言っていた。高校生、大学生くらいの時は、気持のよいくらい、他のものの評価がきっぱりとできる年代なのだろう。

 音大生が、大家の演奏を事細かに分析し、けなす、なんていう光景によく出くわした。恐れ多くもあるのだが・・・大体が、技術的な批評なのでそれはそれで「あり」かなとも思う。恐れることなく、批判ができるのも若さの証拠でもあり特権だ。エネルギーがある時代が懐かしい。実態の伴わない理屈を言って、父親と意見が対立したことを思い出した。いま思えば、多くは父親の言っていることが的を得ていた。

 話は飛ぶが、レコードで買ったものを、いまCDで購入できるかというと必ずしもそうではない。市場の論理が優先されるのだろう。売れないものは廃盤にする。これも致し方のないことだ。利益を度外視して、売れないものでも細々でも売ってくれる会社はないのかと思うのだが、あったら会社はつぶれてしまうだろう。ある分野で利益をあげておき、音楽や文化の関係するものには採算を抜きにして資金を投入する、などという考えは、それこそ若い時代の現実社会を見ていない「理想」を言っているようなものなのだろう、な…と、さびしく納得した。



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