徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百五十五段*<夢のあと>2008.9.14

 夢について考えた。この夢とは、夢や理想の「夢」ではなく、睡眠中に見る「夢」のことだ。
 夢の分析や謎は科学的にも、脳の活動として研究はされ尽くしているのだろうから、科学的なことを書くのではない。私が見る夢のことだ。大きく分けると、楽しい夢と苦しい夢に分けられる。そして私の見る夢は既知のものだ。現実ではありえない夢を見るのが夢だとすればまさに、正しい?夢を見ていることになる。

 演奏会場で指揮をしている私がいて、それを見ている私を、私が見ている夢なんて現実にはありえないことだ。こんな夢の時は、目覚めてからそんな嫌な気持ちにはならない。暗譜をしてなかったり、いつの間にか本番直前になっていて困っている自分とか・・・、卒業するのに試験があり、その勉強をしてなくて不安に駆られる夢とか、しかも、それは現在の自分がそんな目にあっているのだから、このような夢は、いわゆるトラウマが見させてくれるのだと納得もし、これも起きた時には、ほっとして安堵できる範疇の夢だ。

 最近見る多くの夢は、夢の中では楽しい夢なのだ。今は亡き父親が、楽しく話しかけてくるのだ。笑顔で。あるいは、父親を中心に家族で談笑している。息子が小さかった時のかわいい顔や、無邪気な態度、そして、それもいつも笑顔なのだ。こんな夢をみたあと、起きた時にはたまらなく苦しく、悲しい。見ている夢は楽しいのに、起きた時が苦しいのだ。この苦しい思いは、仕事や人間関係のどんな苦しさよりも、苦しく、胸が痛くなる。

 時間を取り戻すことは、誰にもできない。そんなことは分かっているから、現実の生活では考えないようにしている。それでも、夢には過去の映像が出てきてしまう。このことは、なんとかならないのかと思う。できれば過去の楽しい時の夢は見たくないのだ。現実ではありえないことを見るのが夢だとしても、嫌なことを夢に見るほうが、後味がいいのだ。

 夢は不思議だと思うのだが、自分の意志とは関係なく見てしまうのは、なんとかならないのか。たぶん、なんとかはならないのだろう。私は、ことさら父親が好きだった。一時期は父親が死ぬ前に私が先に死にたいと思ったくらいだ。死んだあとの喪失感に耐えられないと思ったからだ。息子も好きだし、溺愛をしていたのだろう。もう成人しているから、幼い時のようには接することもなく、幼いころの面影もわずかだ。楽しいひと時を夢の中で見て、起きた後には何もない現実に引き戻される。これが、今の心の反映だとすれば、ちょっとまずい・・・かなと、自分の夢を感覚で分析してみた。



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