徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百五十六段*<日常と違う景色>2008.9.18

 日光の初霜の便りの次は、そろそろ紅葉の便りかと楽しみにしている。
 紅葉と言えば、少し遠くの紅葉を車窓から見る時と、高原や山に入って間近に見る時と、同じ間近にとは言っても建物とともに見る時と、大きく分けると三つのパターンがある。

 山が全山、錦に染まるのを、遠景として見るのも目に残る。山や高原の紅葉を間近に見ると、自然の厳しい中での紅葉を感じさせてくれる。それは、鮮やかでも、厳しい鮮やかさとでも言おうか・・・葉の虫食いも平地よりは多いように見えるし、野生の紅葉と称することもできよう。

 建物の中で一体となっての紅葉は、人と自然との微妙なかかわりを感じさせ、それだけに不思議な印象を持つことができる。主に、京都でその感覚を味わうことができる。有名な清水寺では、スケールの大きな本堂の舞台にふさわしい紅葉とでもいえようか。東福寺も同様だ。通天橋から見る紅葉は、葉の密度が高く圧巻だ。色に厳しい人に言わせると、京都でも中心部に近い市街地での紅葉と、少し奥に入った紅葉とでは微妙に色のコントラストが違うそうだ。それにしても、ライトアップされた清水寺、高台寺、永観堂はスケールや怪しい魅力も含めて訪れる人たちを魅了している。

 嵐山、嵯峨野に足を伸ばせば、二尊院、祇王寺、常寂光寺など、小さな寺院なのだが、それゆえに紅葉の量を比較して楽しむことができる。紅葉の馬場とさえ形容され、もみじの落葉の上を歩くような、そんな贅沢すぎることにも出会えるのだ。関東に住んでいる私には京都は何度行っても奥が深い。日本人の三人に一人は、年に一回は京都に行っている計算になるそうだ。そう言われて違和感なく、そうかも・・・と思えるところが京都だ。

 紅葉や桜は、その最盛期の時間が短い。自然に左右されるのは当然だ。それは、見ごろに出会うのは偶然といっていいくらいの難しさがある。それでも、最盛期の前の時でも、最盛期が終わった名残の時でも、それはそれで意味をもって心に染みるし、心に問いかけてくる。一期一会の出会いの難しさや、自然のサイクルと、人生のサイクルをリンクさせてくれるのもこんなときだ。

 日常とは違う場所に立ち、日常とは違う自然を見て、感じ、日常では得られない、パワーを与えてもらう。旅とはそれだからこそ、価値があるのだと思う。旅をすることが目的ではなく、日常を少しでも高揚させるために、私には四季を感じさせてくれる小さな旅が必要なのだ。



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