徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百六十二段*<昔の指揮者>2008.9.25

 バンベルク交響楽団の次は、ハンガリー国立響のことだ。ヤーノフ・フレンチェクの指揮だった。

 この演奏も印象に残っている。明らかにアメリカのオケともロシアのオケとも違う響きを持っていた。楽器の違いもあるかも知れない。それと民族性というか、オケの歴史を重ねた中の環境、風土が違うこともあるだろう。アンコールで演奏されたベルリーズのハンガリー行進曲、これはショルティ・シカゴ響でも聴いたので、違いが鮮明だった。短い曲だ。指揮者の解釈というよりオケの響きが前に出る曲ともいえる。華やかなサウンドのシカゴ、とやや地味なサウンドのハンガリー国立響、圧倒的な演奏と、心に染みる演奏とでも言おうか、どちらも印象に残っている。

 その頃の指揮者が個性的だったような気がするのは私だけか・・・。フレンチェクもショルティも圧倒的な存在感だった。チェコのカレル・アンチェルは、「アンチェルの新世界か、新世界のアンチェルか」と形容されていたくらいに、ドボルザークの演奏には絶対の評価を得ていた。

 ロジェストビンスキーとモスクワ放送響の演奏もすごかった。音量が今まで聞いたオケの1.5倍くらいあったように感じた。金管の咆哮に負けない弦楽器のパワー、もちろんパワーとは書いたが、そう聞こえるにはピッチの正確さとか、楽員のプライドとかいろんなことが加わっての結果だ。曲は「悲愴」だったが、曲の印象よりもオケの印象のほうが強く残っている。

 こう書いてはいるが、昔の指揮者がすべてよいと言っているわけではない。たぶん曲との相性もあるだろうし、オケとの結び付きもあるだろうし、録音の場合は、音そのものの取り方にも影響されるだろう。ただ、私の今書いた部分は、生演奏での印象だ。エーリッヒ・ラインスドルフの指揮も印象に残っている。ブラームスの四番だったが、細かなところを突き詰めるのではなく、自然に流れる音楽が結果として悠揚迫らぬ演奏になっていた。チェリビダッケの指揮による細部をとことん突き詰めたブラームスの四番もかなりのインパクトがあったが、聴いた後に疲労感が残った。

 音楽雑誌での演奏批評は、ラインスドルフの指揮には批判的で、チェリビダッケの指揮を絶賛していた。音楽の評論にはこの対照的な評価もありうるので、読むほうとしてはその評論家の「聴く耳」や立場も含めて読まないと、ただ、信じるだけでは自分が迷うはめになる。最近、ステレオ録音初期のワルター・コロンビア響のベートーヴェンの五番を久しぶりに、何十年振りに聴いたのだが、所々の不自然とも思えるテンポや間の取り方に、首をかしげた。少年時代の聴き方と、今とではおそらく観点が違ってしまったのだろうと思った。この時間による感覚の影響をまともに受けるのが、音楽表現の一つの宿命ともいえる。



 百六十一段へ   百六十三段へ