徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百六十七段*<”秋”を感じる曲>2008.10.4

 歩いていて、信号待ちの時に「石臼の歌」のメロディーが浮かんだ。そのメロディーから逆に秋を感じた(秋の気配からではなく)。他にも「ちいさい秋見つけた」を思い浮かべたが、どうもしっくりこない。

 「誰かさんが 誰かさんが 誰かさんが見つけた 小さい秋・・・・」が思い浮かぶよりも、やはり「秋の日を 輪廻の 手臼押し回し しらじらと・・・」の歌詞とメロディーが浮かんでしまう。

 二曲とも中田喜直の作品だ。詩からすれば、もちろん秋をうたっているのは確かだ。その詩の感じから、片方は童謡のように作曲され、片方は歌曲のように作曲されたのかも知れない。

 指揮をするときに、曲の情景が浮かぶとイメージが作りやすい。これは標題音楽に限らず、絶対音楽の場合でもそうだ。曲を表現するときに、何も考えることもなく、何のイメージも持たずにただ音符を音に変えるというだけの作業では、本当に「作業」になってしまう。

 作業なら、ひたすら正確さや、迅速さや、効率を追い求めればいいのだろう。音楽の表現はそれとは根本が違う。音楽の表現は、時間を削りながら(つまりこの時間とはその人の持ち時間のことを指す)音を出して作曲家の心を表現するのだ。表現をすればするほど、その人の持ち時間を食っていく。そう考えればかなり残酷な作業だともいえる。

 ところで、童謡がいまひとつしっくりこない・・・と書いた。おそらく、子供のころにはそれほど曲と結びつく鮮烈な体験がなかったのかな、とも思った。仮にそのような体験をしていたとしても、記憶が微かになっていることも考えられる。

 思春期から青年前期の時代は、だれもが多感な時を過ごす。曲というものは不思議だ。誰かを好きになり、その人と相思相愛になり、心が弾んでいるときに何かで知った曲は、そのイメージで、時間を超え、たとえば、メロディーとかその時に見た建物とかと連動して懐かしく思い出せる。逆に、その相思相愛が壊れた時は、音楽や建物は存在したはずなのに、うまく思い出せない。その心が弾んだときがあり、今はそうではないという虚しさが先に立つ。それにしても、時間が経ってさえもなお思い出せるのが「青春」の一ページだ。

 そう考えてみれば、童謡よりも歌曲・・・合唱曲、あるいは管弦楽曲のほうを思い出してしまうというのも納得できる。季節と音楽とを繋げて考えると、なぜか、春や夏よりも秋につながってくる。これで紅葉でも始まれば、甘くもあり、苦くもある私の「秋」の・・・想い出の断層・・・が否応なしに心を染めてくれる。



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