徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*百七十八段*<コンヴィチュニー>2008.10.31



 コンヴィチュニーのベートーヴェンを時々聴く。その時の気分次第での聴きかただ。当然、曲はベートーヴェンの交響曲になる。録音が1959年から61年のものだから、かれこれ五十年位前の録音になる。初期のステレオ録音だが、それほど音は悪くない。楽器の音量バランスがちょっと、?だったり、もちろんデジタルの最新録音とは新鮮さに大きな違いはある。それでも許容範囲の音だ。許容範囲と書いたのは、あまりに録音状態が悪いと、演奏がいくら良いものでも長く聴くのが辛くなるのも事実だから。

 私にとっての神のような存在の指揮者、フルトヴェングラーの録音は比較的良い状態のと、雑音がかなり多くてそれがストレスに感じるものとの両方があり、後者は、鑑賞でなく勉強のために聴いていても、耳が疲れる。これは音楽の録音での宿命だし、受け入れなければならない。

 それでも、音がきれいなだけの魂のない演奏を聴くよりは、遥かに精神的には満足する。音楽表現で美音なだけの、あるいは表面的としかいえない演奏こそは最悪だ。音と時間の浪費としか言いようがない。

 コンヴィチュニーの指揮に戻るが、ゆるぎない信念というか、堅牢というか、媚びない姿勢、小細工を感じさせない説得力がある演奏で、それにまず感じ入ってしまう。

 有名な曲やよく演奏する曲だと、ややもすると、細かいところにこだわったり、新しい解釈を加えなければ、とか、違う楽譜を探して、・・・・・版、世界初演をうたったりをめざしてしまう。コンヴィチュニーのような、ある意味、愚直なまでに、王道を歩む音楽へのアプローチは、ふと我を取り戻させてくれる。

 最近思うのは、自分がやっぱり日本人だということだ。そう考えると、日本人には日本人の感性があるのだから、それを素直に表現するのが自然なことなのではないのか、ということだ。日本人の感じるベートーヴェンを堂々と表現したいと思う。これは、いままであまりなかった感覚だ。それにベートーヴェンは、どんな感性にでも応えてくれる懐の深さがある。

 ここしばらくは、ベートーヴェンとブラームスのシンフォニーを追い続けたい



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