徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百三段*<カラヤンとベートーヴェン>2009.1.16

 ベートーヴェンの交響曲を振る時になると、カラヤンの演奏を思い出す。初来日のときの5番はモノクロだが映像に残っている。カラヤンはベートーヴェンの交響曲を何回レコーディングしたのだろうか。私の不確かな記憶では、4回か、3回か、だ。初めがウィーンフィルとのコンビでのエンジェルへの録音、その後、独グラモフォンに3回は録音していたように思う。このへんの記憶は曖昧だ。

 基本的な表現はあまり変化がないように思っている。どの曲もベートーヴェンを聴くというより、カラヤンを聴いているような気がする。どことなくわざとらしさを感じるのは、私の聴き方のくせかもしれない。特にわざとらしさを感じるのは、カラヤンが監督か監修をしたかの映像だ。演奏会を多くのカメラで撮っているように見せて、別の映像を組み合わせてあり、楽器のアップがとにかく不自然なのだ。奏者のアップも。

 突然、譜面台がなくなり、演奏者の横からのアップになったり、ティンパニーのヘッドとスティックだけがアップになったりで、あまりにもわざとらしい。

 カラヤンが晩年に演奏したものは、それが少なくなっているとはいえ、所々に散見し、そのたびに興がそがれてしまう。なぜ、あのような演出をしたのか、いまだに理解しがたい。特に晩年の演奏は、自然さと凄味があいまって感動的な演奏が多かっただけに、なぜ、普通のテレビ中継のような画面にしなかったのか・・・、惜しいとしか言いようがない。

 ただし、演出されつくした映像がいいという人もいるかもしれないので、これはそれぞれの観点があるだろう。

 ベートーヴェンの九つの交響曲は、個性豊かで、全部同じスタイルでの表現だと、曲によっては違和感が生じる。たとえば、少なくとも一番の交響曲は、ハイドンの影響を受けているだろうと思われる若きベートーヴェンの最初の交響曲だ。これをあまりにスケール大きく表現されると、何とも大袈裟な曲になり、この曲とはそぐわない。だからといって二番も同様かというと、これが違うのだ。こじんまりした二番は退屈に陥りやすく、このあたりの表現の幅をどう考えるか、意外と難しい。三番はもうこじんまりとは演奏できないだろう。縦横無尽にベートーヴェンの面目が発揮される大曲だ。演奏時間も急に長くなる。

 だが、そのまま曲が同じように作られるかというとそうではなく、四番で趣をガラッと変える。シューマンが、三番と五番とにはさまれたこの曲を「北欧の巨人にはさまれたギリシャの乙女」と称したそうだが、なるほどとうなずいてしまう。

 ベートーヴェンの魔力からか、いくらでも好きな交響曲を録音できただろうと思われるカラヤンが、何度もベートーヴェンの交響曲全集を録音し直している。そして、それを聴く私は、なんとなくしっくりとしないものを感じている。私の中では、カラヤンとベートーヴェンは相性が良くないのでは・・・と思う最近だ。



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