徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百十段*<演奏会の前日>2009.2.6

 指揮をするたびに、その演奏会にかかわる裏方さんたちのことを思う。本番が近くなると自然にそのことに思いが向く。一年前の千葉県民合唱団のロ短調ミサのときもそうだった。本番を明日に控えた今日も同じことを考える。

 団員は表現することと、そこに至るまでのいくつかの場面で本番に向けての作業や役割を果たさねばならない。プロの音楽事務所の主催でなければ、それはどの団体も同じだろう。

 それでも、団の役員ともなればさらにやるべきことは多くなる。プレイングマネージャーとでもいってよいのか。七日の演奏会では、歌って、ピアノを弾いて、事務局長として広報責任者をやって、という表に見えるだけでも三役をこなしている者がいる。見えないとこを推察すればもっとやっているはずだ。ほかの役員も二役はこなしているのだが、この三役以上、には、敬意と感謝を表さなければならない。

 演奏とか踊りとか歌とか指揮とか、とにかく表現者が表現できる舞台に立つまでには、かなりの人のかかわりが欠かせない。音楽は曲、演奏、聴く人、と三つがそろって成立する芸術だから、聴衆の方の役割も大きい。そこも含めて、音楽をするということは、人間の総合力というか、共同作業力というか、社会力というか、すべてが結集しないと出来上がらないし、どこかが欠けていると、できたとしてもいびつなものになりかねない。

 七日にも全く聴衆には見えない舞台裏で、舞台関係の準備や進行をやってくれる人がいるのだが、一人は現職の高校の教頭先生、一人は財団法人の役職の人だ。なんだかそれだけでも恐縮してしまうのだが、嬉しくもある。その心意気はまさしく「義」の表れだ。遠方から都内までの道のりを思い、貴重な土曜日を考え合わせると、あっ、それから年齢も加味するとさらに頭が下がる。

 歌ってくれる人の中に、初任の学校の生徒がいたり、高校の後輩がいたり、合わせて三校の教え子が、ある人は歌い、ある人は、受け付け作業をやってくれたりと、曲の名前と同じになってしまうが、まさに「聖母の宝石」のような人たちだ。名もない、小さな、実績もない、地味な合唱団の演奏会だが、目指すは既存の合唱団とは違う土俵での「心の歌」だ。

 浜離宮朝日ホール、中田喜直作品集・・・中田喜直先生と握手をしている写真や、打ち上げの飲み会で談笑している写真や、以前プログラムに書いてもらった先生からのメッセージなどを今夜は見て、在りし日を偲んでから明日の指揮に臨むことにしよう。



 二百九段へ   二百十一段へ