徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百十三段*<音の不思議>2009.2.10

 音というものは不思議なものだ。声だと一人ひとりの声帯の長さや、体格や共鳴する場所によって話声が違うのと同じに、歌声も違うのだと理解するのはたやすい。

 楽器は発音体が体とは別にあるのだから、あまり個人差はないのかと思うと、これが人によって音色がいろいろになるのだ。

 ピアノは吹奏楽器のように息を使うのでもなく、弦楽器のように体の一部を楽器にあてて音を出すわけでもなく、鍵盤に指が触れるだけの人体との接触なのだが、これも人によって音が大きく変わる。

 ピアニストにそのことを聴いてみても、あまり的確に答えをもらったことがない。ピアノの場合は音色をタッチという言葉で表現する。タッチがいいとか、悪いとか・・・

 音色の差の生まれる不思議さは、音楽の不思議さでもある。

 楽器という表現する媒体を使うわけだから、その楽器も重要な役割を果たすことは容易に想像できる。ただし、それも音色の決定条件のすべてかというとこれがそうではない。同じ楽器、つまり現在の最新技術で作った均質感の高い楽器を使っても人によって音色が違う。

 音を出さない指揮にもある程度はそれが当てはまる。無論、個人が個人の責任で出すソロ楽器とはその度合いはおのずから違うが。

 現代のように、音楽の世界にも分業が当然となってくると、常任指揮者や音楽監督がいても、絶対の力を持つことはないわけだから、指揮者の違いによる音の差は昔よりもはるかに小さい。

 これは、グローバル化という経済や政治の様子とも共通するだろう。音楽表現もグローバル化だ。

 このことが、良いことばかりなのか、弊害も伴うかは、経済や政治のグローバル化と同様で、慎重に判断しなければならないはずだ。音楽という精神活動の大きい分野だから、効率や生産性だけでは判断できないだろう。しかし、日本人の悪い癖だ。ある方向性がでると、一斉にそっちに向かって走り出す。

 教育や芸術こそは、経済や政治とは一線を画して、いつの時代、どんな政治状況や経済状況になっても、それとは別に厳然と別個のものとして、人間の中に存在しなければならない、という共通認識を持つべきだと思うのだ。

 音色のことを書き始めたのだが、最後は音色とは関係のないことを書いてしまった。



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