徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百十四段*<残したいもの>2009.2.11

 パソコンのメインスイッチをオンにして画面が出るまで約30秒、ワードの画面を出して作業を始めるまでを含めると約一分。時間の経過をふと考える。

 おのれに残された時間のことも・・・。特に逼迫して時間がないということでもないのだが、それにしても残された時間が無限だとはだれもが思うまい。歳を重ねれば否応なく現実味が増してくる。

 自分が何を残し、何を伝えられるのか・・・創造できる才能があれば、何らかの作品を残すのだろう。はたして、残念ながら自分にはその才能はなさそうだ。

 無形のものとして残せるものを見つけるしかない。

 まず、私が私のものとしてやりたいこと・・・それは指揮をすることだ。それに専念することなく今までの時間を使ってきた。残りのわずかな時間を指揮に費やすことは、たぶん周りも許してくれるだろう。

 何かをメッセージとして残したい。これは日本の合唱曲の「古典」を確立したい、ということがそうだ。日々におわれ、物事の多くがニュースのように日替わりのように扱われる。過去を忘れ、新しいものを追いかける・・これは人間の常ともいえるし、正しい選択だともいえよう。

 しかし、視点を広く見れば、国宝でも文化財でも人が意志をもって保存しなければ、長くは保存できないのだ。ほったらかしでは何事も朽ち果てるのは歴史が証明している。

 無くなったもの、亡くなったもの、見えなくなったものは、否応なしに忘れ去られる運命だ。だからこそ、意図をして残す努力をしたい。まさしく、「蟷螂の斧」だとしても、だ。

 さて、三つ目だ。斎藤秀雄氏の著した指揮法教程を伝えることだ。個人から個人への伝達の作業になる。きわめて効率のよくない方法だが、録音や映像などの一方通行では伝えられないものなのだ。技術はキャッチボールのように、往復のやり取りの中でこそ伝えることが可能だ。一方通行のメディアですべてを伝承できるほどの易しいことでもないのだ。だが、これだけ情報伝達力が増してくると、勘違いして、容易く技術と精神の伝達をもらえると思う人間も出現してくる。その中のほんの少しの人でいい。この斎藤秀雄メソッドを引き継いでくれる人がいてくれれば・・・。

 息子が大学のサークルの準公式行事のような、スキーに出かけた。普通に滑ってくるだろう。幼児のころに近くに屋内のスキー場があり、そこのスクールで基礎の滑りを練習した。そのあとは、毎年、何年間もスキー場に連れて行った。私は、万年初心者だが、子どもの息子は自由自在に滑っていた。最初のスクールがあればこそのことだ。私が伝えたのではないが、技術は息子に伝わっている。ありがたいことだ。

 伝える人、伝えられる人、この両者の存在は人間社会に不可欠なものだと思う。



 二百十三段へ   二百十五段へ