徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百十七段*<ピアニスト・三浦洋一>2009.2.17

 ピアニストの三浦洋一さんが、先月、75歳の生涯を閉じられていた。日本のピアノ伴奏の第一人者だった。レコード時代の録音で、邦人作曲家の作品のピアノ伴奏はほとんど三浦洋一さんがされておられたといってもいいくらいの仕事をされた。名伴奏者として、日本のジェラルド・ムーアともいえる人だ。

 私が、生の演奏をホールで聴いたのは、おそらく40歳代のころか。演奏家として最も充実していたと思われる頃の演奏を聴けたのは幸いだった。

 演奏の印象は、ピアノ伴奏が伴奏を超え、一つの音楽を作っていた。歌曲や合唱のピアノ伴奏は、伴奏という言葉を使ってはいるが、その重要さは、歌と合唱と同等かそれ以上のものがある、という私の持論に最も近い演奏だと思えた。

 ピアノ伴奏を伴奏ではなく、コンチェルトのように弾くべきだ、というこの考えは、合唱指導者からは異論を唱えられることがあるのだが・・・。

 音楽の表現方法を表す言葉として「伴奏」という言葉はなくしたほうがよい、と今でも思っている私には、その裏付けを与えてくれるピアニストだった。

 たとえば、声楽家がリサイタルを開催して、歌声を披露したとして、場合によっては、歌声よりもピアノ伴奏のほうに説得力があったり、表現力があったりすることもあるのだ。それなのに、「伴奏」という言葉はいかにも一段低く見ているようで、私の中では具合の悪い言い方だ。

 オーケストラにも似たようなことを感じることがある。オーケストラのソロを吹いたり、弾いたり、叩いたりする人は、その楽器の独奏者のように、できうる限りの技術と表現力で演奏してほしいと願っているのが私だ。これも、考え方の違いだろうが、それならソリスト級の人が集まればすぐにいいオケになるのか?という人もいる。このいいオケという言い方も曖昧なのだが、ソロをソロのように魅力あふれる演奏をしてくれるほうが、少なくとも私は楽しく感じるし、満足もする。

 無気力で主張のない演奏を生で聴くのは時間の浪費にも等しい。しかし、突出することや、横並びや平均をもって高い価値とする日本人には、これは支持されないかもしれない。ベルリンフィルのフルートやクラリネットやオーボエ奏者が、技術も表現も非の打ちどころのない演奏をしたときにも、その演奏に疑問を投げかける音楽評論家もいるくらいだから、価値観はいろいろだと思うしかない、か。

 三浦洋一さんの「偲ぶ会」が来月に開かれるとのこと、「洋ちゃんを偲ぶ会」というネーミングからして、生前の人柄が浮かんでくる。何枚ものレコードで演奏は聴けるにしても、生の舞台での音楽と一体化したかのようなピアノ伴奏をする姿が見られないのが残念だ。



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