徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百十九段*<「信」と「義」>2009.2.20

 この徒然草も段数を重ねてきた。自分のホームページの中の一部にしかすぎないのだが、読んでくれている人がいるとわかるだけでも嬉しいものだ。来月には「指揮リサイタル」を27日に紀尾井ホールにおいて開くが、その時にこの徒然草からの抜粋を小冊子にして、プログラムと一緒にお渡しできれば、と考えている。

 思えば、成人してから音楽を志し、大学を中退し、専門学校に入りなおし、その間にパートタイマーとして働き、教員免許を取得、中学校の音楽科教諭として教師としてのスタートを切った。小学校では模範児童、中学校では普通の生徒として歩んできたのだが、高校生になってから歩みは行きつ戻りつか、ジグザグか、右往左往か、そんな生活になっていった。高校は卒業に4年間かかったのが本人の予想に反していた。反抗期だったのか、やや遅い・・・。とにかく反抗していたなあ、と今更ながらに思う。

 そんな自分を救ってくれたのが、音楽との出会いであり、音楽を通しての人との出会いだ。

 初任の中学校では合唱、二校目ではオーケストラ、三校目では吹奏楽、と異なるジャンルの演奏形態をすべて指揮することで経験を積み、しかも三校ともに異なる「市」での勤務だ。いま思えば恵まれていた。人事異動だから本人の希望とは別の異動が当たり前だ。私の場合も全部他の人が人事をやってくれての結果だ。運がいい、と思わねばなるまい。

 想い出の断層ともいえる、断片的な思い出がそれぞれの学校にある。生来の怠け者の私のようなものが教師をやってはいい生徒を育てることはできないのだろうが、生徒にも恵まれてきた。同僚にもずいぶん助けられた。県庁の仕事も経験の幅を広げてくれた。その時の机を並べた同僚には今でも助けられている。

 歳を重ね、無意識に大事にしてきたものがなんだかわかってきた。それは「信」「義」こそが己の背骨だということだ。古臭い言葉か、気障な言葉か、胡散臭い言葉にも取られそうだが、この二つがなくては今の自分はなかっただろう。

 これからの人にも伝えたい。「信」「義」・・・これがあれば怖いものはない。他人に左右されずに自分を貫ける。他人に惑わされ、心を乱される割合も小さくなる。神ではないただの人間だ。惑いや恐れや失意や落胆を経験する。その時に心のよりどころがないと精神が折れてしまう。

 おそらく、この二つに「愛」が加われば十全をなすのだろうが、「愛」は広く、深く、無限だ。あまりにも大きい。これを加えるところにはまだ至らず、だ。私は・・・。

 人は無意識に求めてしまうものがあり、それは「愛」なのだろうと思う。社会が逼塞状態だとさらに無意識に求める力が強くなり、しかし現実には求めえず絶望してしまうのかも知れない。今の社会状況で愛を探し、夢を持って生きるのは難しい。



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