徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百二十三段*<音楽の構成力>2009.2.25

 国宝「阿修羅」のファンクラブがあるようだ。ファンクラブだから生きている人のだけかと思っていたが、それは私の間違いらしい。

 戦国武将に夢中の女性が最近増えたとのことだ。それも面白い現象だ。

 前段で、忘れ物の蝶ネクタイのことを書いた。その時は必死の思いで対応を考えたのだが、あとになって思えば笑って話せる。喜劇王チャップリンがこう言っている。「物事の多くはズームで見れば悲劇に見える。ロングショットで見れば喜劇に見える。」と。なるほど、とうなずける言葉だ。名言だ。

 時間に置き換えても同じことが言える。その瞬間は重大な出来事でも、時間の経過とともにその重大さは薄れてくる。これは良くも悪くもだが。

 先人は戒めの言葉として「喉元過ぎれば熱さを忘れる」とも教えている。忘れることも人間の能力の一つだろう。いやなことは早く忘れ、うれしいことはずっと覚えるようにする。これも生きる上での知恵か、自然と身についた防御本能かもしれない。

 指揮法の受講生が二人、上級になった。ベートーヴェンの「悲愴」がその一曲目の曲だ。ピアノソナタの全三楽章をやっていく。このソナタ形式の曲をやるのには大きな意味がある。ピアノソナタやソナタ形式で作られているシンフォニーの指揮をするということで、音楽の持つ構成力を身につけることができるのだ。小曲の指揮ではあまり必要のなかった「構成力」、これが実は40分〜50分以上もかかる曲の指揮には欠かせない能力となる。

 全部の楽章を聴き終わった聴衆がどんな気持になるのか、それも含めて考えての指揮が必要だ。これは数分で終わる小曲ばかりでは対応できないスキルと言える。

 指揮法を学ぶということは、実は腕の筋肉のコントロールだけではない、曲全体の表現方式や聴く側の心理を学ぶことでもある。指揮棒のコントロールは当然のスキルとして必要だ。これは断言できる。指揮法教室のピアニストが経験を重ねるにつれて、指揮に対して敏感に反応してくる。やはり見にくい指揮の部分では二人のピアニストが合わなくなり、そのうちのより敏感に反応するピアニストのほうが戸惑いを感じる。筋肉のコントロールをかなりできるようになると、構成力もわかりやすくなるというリンク性があるのだ。不思議だが。

 スキー競技の中継を見ていた。スポーツは見ている者に直接的に刺激を与えてくれる。音楽はその直接性とは少しだけ距離があるように感じた。



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