徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百四十段*<オーケストラの醍醐味>2009.3.15

 チャイコフスキーの「悲愴」を聴いた。何かを聴こうとするときは、大抵が突然思いつく。小澤征爾さん指揮の録画を二つ聴いた。年数にして13年の間隔がある。そしてオーケストラはひとつが「サイトウキネンオーケストラ」、もうひとつは「ベルリンフィル」だ。演奏会場は長野県松本市とベルリン。
 音も画面も違うし、指揮者の年齢も違う。時間の経過をリアルに感じた面があったが、ここではその点ではないところを書きたい。
 この二つの演奏に、同時に感動した。オーケストラの楽員から伝わる熱気というか、あるいは演奏から伝わる「志の高さ」といったものか・・・とにかくこの二つのオーケストラには、共通の他のオケにはない何かを感じる。一部の楽員から感じることは他のオケの演奏でもあるのだが、百人近い楽員全員から同じようなものを感じることは滅多にない。
 妙にまとまりの良さやこぢんまりとした低体温の演奏を聴いていると、聴く方の気持ちも冷めるというものだが、腕の立つ演奏家が思いっきりその個性を表現し、それに触発されるかのように、他の人の演奏も熱を帯びる。これがオーケストラの醍醐味だと私は考える。

 「室内楽を大きくしたのがオーケストラ」だという考え方もあり、それはその通りだが、その意味するところを違うように解釈している人もいるようだ。つまり、室内楽の少人数でのまとまりの良さや、バランスのとれた音量、過不足のない表現・・・といった面に焦点を合わせると、アンサンブルが整っていて突出しないオーケストラ、という方向に向かうのではないか。そうではなくて、室内楽の演奏家は、よりソリストに近く、個性や表現力が際立っているというところに目を向けて、それらの人たちの集まりがオーケストラだという認識を持たないと、没個性の温度の低い演奏をする団体になってしまうのではないか。

 この二つのオケはそのような人たちが集まっていて、優秀な指揮者とともに持てる力のすべてを聴衆に示してくれ、それを聴衆が満喫することができる。世界の宝と言ってよい存在だと思う。
 オケの中でソロの役割が多くなる管楽器奏者の卓越した演奏を、目立ち過ぎ、という評論をする人がいるが、それは疑問だ。オーケストラの管楽器の響きのもとには、これも有能な弦楽器奏者の存在があるからこその、管楽器のソロ部分だ。ソロ奏者が弦楽器のように支える役割をして目立たないというのではソロの役割を果たしていないだろう。オーケストラという音楽を表現する団体ではあるが、そこにはそれぞれの役割を全力で果たすという、組織の基本中の基本があるのだ。もし、組織の構成員の一人一人がその役割を十分に果たしていないとしたら、その組織の存続は危うくなるかもしれない。

 音楽を聴く喜びの中に、音を聴く喜びと「人間」を感じる喜びとの二つがある。その二つが満たされたときが、生きる喜びを感じる時だ。

 ところで、人を「人間」と称するのは世界でも日本とあとほんのわずかの国しかない、との話を耳にした。人間・・・まさに日本人の持つ独特の感覚かもしれない。もちろん美点として。



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