徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百四十一段*<サイトウキネンオーケストラ>2009.3.16

 昨日、チャイコフスキーの「悲愴」の演奏のことを書いた。サイトウキネンオーケストラの録画を少し探してみたら、ブラームスの交響曲第4番が見つかった。指揮者は同じ小澤征爾さん、1989年フランクフルトでの演奏会の映像だ。オケとしては二回目のヨーロッパ公演だろう。20年前の演奏、白熱した演奏だ。「悲愴」と同じ雰囲気を持っていた。豊穣な弦の響きの上に管楽器が宝石のように煌めく。テュッテイではエネルギーの塊となって迫ってくる。この音の塊がまるで魂の、心の、精神の塊であるかのようにも聴こえた。

 それから五年後に小澤征爾氏が日本のホールで、世界一と評価する人の多い、某オーケストラを指揮してのブラームスの第4番の交響曲の録画も見た。見て、聴いた、というのが正確な言い方だ。
 やはり演奏の温度が違っていた。温度がサイトウキネンオケのほうが高いのだ。どう聴いてもそうだ。指揮者の指揮自体と音楽の解釈はほとんど同じだ。それなのに聴いた後の、いや、聴いているうちに湧き上がってくる印象がまったく違った。技術も気力も(つまり、気迫か、心か・・・)サイトウキネンオケの方が勝っているのだから、聴いた印象が違うのは至極当然だ。サイトウキネンオケ、このオケは日本が世界に誇るべきオーケストラだと思った。

 しかし、残念ながら私の思っていることとは逆に評価している人が日本には多い・・・(断言はできないので・・・のような気がする、と書いておこう。)これを日本人ならではの欧米崇拝思考というのか、なんと表現するのが適切なのか、うまい言葉が見つからない。

 今日はふとした思いつきで、たまたま同じ指揮者の同じ曲のだいたい同じ時期の演奏を聴き比べることができた。記録は必要だとも思い、技術の進歩を考えると、今なら、DVDやBDでもっとよい音と映像で記録できたのに・・・とも思った。これは仕方があるまい。
 一番感じたのは、指揮者はやっぱり音を出せない音楽家だということと、次には楽団(つまりオーケストラとしての集団だ)の力は大きい、ということを改めて認識した。楽団と言っても個人の集まりだから、極言すると個人の問題になってしまうのだが。
 こう書いては見たが、名人集団のベルリンフィルでさえも、平凡な指揮者だと平凡な演奏に聴こえるのだから、指揮者の存在も大きいということにもなる。持つべき能力の中で、指揮者としての重要な要素にカリスマ性が必要かな・・・と感じたり・・・それはしかし滅多に得られる能力ではないことを思えば、職人のような指揮者と、芸術家としての指揮者と、両者が必要なのかも知れないとも考えた。考え始めると難しい。



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