徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百四十三段*<式>2009.3.18

 今日3月18日は、近隣の小学校は卒業式が多かったようだ。中学校は先週か。
 小中高大と卒業式の中身は違っても、学び舎から旅立つことには変わりがなく、それぞれの時にそれぞれの卒業式があるのだろうと思いを巡らせた。
 振り返ってみると、やっぱり卒業の時の担任の先生の顔が思い出される。あとは、何らかの点で尊敬できた先生か・・・もちろん多くかかわってくれた先生のことは忘れがたい。児童生徒学生に多くかかわってくれた先生は、自然に尊敬できた先生でもあるから同じ先生になることが多いのだが。
 教師に理想と憧れの気持ちを強く持っていた私は、同級生以上に先生の思い出が印象に残っているようだ。

 「式」には形が付き物だ。形を嫌う人もいるようだが、ある程度の形は人間には必要だと思う。中身が形を作ることもあるし、形が中身を作ることもあるのだから。片方を全否定することはできないだろう。
 「式」といえば、心にかけていたことがある。それは、その「式」に参加している全部の人の「式」でなければならない、ということだ。
 たとえば、学校の「式」では児童生徒が主人公ではあるが、参集してくれているすべての人をも大切にしなければならないはずなのだ。教師という職業は時に思考の幅が狭くなる職種だ。式典のどこかの部分が肥大すると、列席している人が苦しくなる。つまり、物理的にとか生理的に、だ。ある卒業式で、証書の授与に一時間もかかったケースに出会ったことがある。体育館の中は寒いし、式が二時間を超えると我慢の限界に近くなる。それに、そのようなケースでは概してストーブが少なかったり、で細かな配慮が足りないことが多いのだ。

 学校いう現場にいるとどうして広角的に物事を見られなくなるのか、不思議なことの一つだった。保護者だって、若い人もいるし、中には祖父祖母が列席していることもあるし、来賓だって、ご高齢の方がおられるのは毎年分かっていることなのに。

 学校批判や教師批判をむやみに賛同するものではないが、一部には世間の常識が教師の非常識と揶揄されても仕方がないかな、と思えるのも事実だ。
 おそらく、それは教師という職業ばかりでなく、他の業種でも似たような弊害はあるのだろう。長くその世界にいること=功の面ばかりではないということだ。功罪相半ばということか。だからこそ、人事のダイナミックさが必要とされる。「人事」・・・これを書くのはなかなか難物だ。



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