徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百五十段*<WBCから見えたもの>2009.3.24

 WBC・・・野球の決勝戦を観た。スポーツを見るときには、勝敗よりも、選手の心を見たいと思ってテレビの画面を見る。記録へ挑戦する要素が多いものや、明らかに力の差が歴然としている場合は、心を見るのは難しいし、見えるものが少ないのだが、野球のように長丁場で、心の動きが見やすい競技は、興味深く見ることができる。
 試合の結果は延長戦になり、5対3で日本チームの優勝でWBCの幕が下りた。イチローの精神力の強さ、あるいは、道を究める究極の姿に何とも言えない魂のようなものを感じた。ほかの選手の誰よりも抜きんでて映った。
 ダルビッシュには若さと気持ちの揺れの闘い、つまり相手選手との闘いではなく、己の心との闘いを見る思いがした。若さの長短があるのは当然で、しかし、若さの良さが前に出てきて、感心しながらこの青年の心中を思った。

 そして原監督だ。東海大相模高校の時から、主にはテレビを通して、ずっと見ることのできた野球人だ。粘り強さ、不動の精神が際立っていた。感情を表にはダイレクトに表さないことで、逆に凄味が増してきていた。たしか50歳か・・・自然に頭が下がった。原監督は一度不当とも思える監督解任に出会っているはずだ。その時の全く弁解をしないことに、少なからず不満を覚えたのだが、弁解しないことでの得られたものは、大きなものだったに違いないと今更ながらに、人柄とそのしぶとさ、気持ちの強さに感動すら覚えた。
 父親は高校時代のチームの監督だった原 貢氏だ。まさに「父子鷹」だ。この場合の親子とは、最近話題になる二世議員とは違うのは当然だ。「父子鷹」というには、父親、子どもともに「鷹」である必要がある。父親の鷹を超える子どもの鷹になってこその「父子鷹」だ。相撲では貴乃花の親子、さかのぼれば、勝海舟と父親の「勝 小吉」が思い浮かぶ。


 対戦相手の韓国選手の精神力も並大抵のものではない。敬意を表するに値する。マウンドに国旗を立てたりしなければ、なお好いのに、と思い、惜しかった。強すぎるナショナリズムは世界を狭くもする。

 新聞、テレビは、「サムライ、ジャパン」とおおいに褒めはやすのだろう。ニュースは一過性のものだと言ってしまえばそれまでだ。だから、扇情的にあおる報道をすることも仮に、「良い」としよう。ただし、最近のマスコミの報道は片方のニュースソースを多く取り上げることがあり、時に平等性を欠くような印象を受ける。ある筋からのリークを頼りに記事とすれば、よほど自戒をしないと世論を思わぬ方向へ向けていく危険性がある。つまり、それだけの強大な影響力を持っているということを今一度、自浄作用で見つめなおす必要があるかも知れないと思わせる昨今だ。



 二百四十九段へ   二百五十一段へ