徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百五十二段*<思いの共有…指揮リサイタル>2009.3.28

 指揮リサイタルが終わった。昨日の出来事だが、ずいぶん前のことのようにも思え、夢のような気もするし、高揚感と虚無感とが入り混じっている。何十年も前に同じような思いを何回もした。音楽すること、私の場合は指揮をすることだが、これを重ねていくうちに、虚無感は薄まり、音楽することが普通になってきた。これは、気持ちの面では楽なのだが、楽な分だけ充足感もいま一つ足りなくなっていった。仕事として取り組むのと、己の精神の要求に従って、すべてを己の責任でやるということの、微妙な心持の違いなのだろうか?指揮をしているときは、どんな時でも、集中力や自分の出すエネルギーは変わらないのだが・・・。

 今回のオーケストラにはいろいろな人が集まってくれた。これだけで私の心に銘記するのに十分だろう。演奏上のことについていえば、楽器のバランスや奏者の巧拙はプロのオーケストラのようにはいかない。ご来場の方がどこに観点をおいて聴いてくださるかで評価は分かれると思う。
 それは当然だ。聴衆の方に、不満や不快感を与えない技術を前提とした上で、あとは、演奏の温度というか、志の高さが、音楽を価値あるものにしてくれるのだと信じている。
 人間のやることだから、人間を表現せずにはいられない。そして、それを己に照らして鑑賞するのが、芸術鑑賞の醍醐味だと思うのだ。

 本番直前に、本当にいろいろなことがあった。なぜか、直前の一週間から本番までに集中していた。お身内のご不幸にあった人が三人出てしまった。そして、当日、ホールに向かう途中の駅で転倒し、腕の骨折をしてしまい、本番を断念せざるを得なくなった人が一人・・・結構、厳しい現実の重なりが続くものだと、天を仰ぐ心境にもなった。
 無事に終わったことで、それらのことも克服できたのかと、関係者の一人ひとりの献身に感謝をするばかりだ。

 指揮リサイタルって?とネットで疑問符を付けられもしたが、それでも、音を出せない指揮者にも自分の修練の成果を披露する機会があったとしてもおかしくはないと思う。
 何かをやれば、否応なく様々な人がかかわってくれる。これって人間としてかかわってくれる人も、かかわりを受ける側の人も、どこかで共通の思いを共有することができるという、言うに言われぬ喜びを感じることができるのだ。
 「思いの共有」、これは生きる糧になると私は考える。



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