徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百五十八段*<南こうせつのライブ>2009.4.3

 またまた、また、たまたまの録画を見つけてそれを見た。南こうせつの武道館ライブの録画だった。同じくらいの世代だからか、ほとんどの曲が聴いたことのある曲だ。32年ぶりの武道館だとかで、初回の武道館にいた人?と聞いたら何人もの人が手を挙げていた。この音楽スタイルは何のジャンルに分けられるのか・・・やっぱりフォークか。

 たくさんのヒット曲はあるけれど、南こうせつと言ったら「神田川」、さだ まさしと言ったら「精霊流し」ということに落ち着く。私の中では。今では思い浮かばないような詩のフレーズがある。三畳一間の小さな下宿・・・とか、小さな石鹸かたかたなって・・・とか。でも、それはその当時では当たり前の情景でもあった。下宿とかアパートは風呂がないのが普通だったから、銭湯だ。銭湯だと毎日は入れなかったかも。
 その時は、精一杯生きているだけだから、環境に不満を持った意識はなく、それを当り前のように受け入れていた。今から当時と同じ状況で生きろと言われたら、それは厳しいものに思う。知らないうちに贅沢になってしまったようだ。

 これも昔・・日本武道館でオーケストラの演奏会をやっていた。小澤と日本フィルの第九とか、カラヤン・ベルリンフィルとか・・・この環境も厳しいものだっただろう。南こうせつの武道館ライブはアコースティックに計算されたものだし、照明は凝っているし、左右には映像も映るようになっている。野球場のオーロラビジョンのようなものだ。ところが、生演奏のオーケストラではそれはなかったように思う。これは想像だから実際はわからないのだが。
 テレビで放送された音を聴いたときはさすがに音が悪いと感じた。東京文化会館でも残響が少ないといわれていたころのことだ。武道館では推して知るべし、だ。

 生の演奏会での会場の大きさは、聴衆が感動を受ける条件として重要だと思う。文化の成熟という観点から言えば、さすがに最近は大きすぎるホールでの演奏会は少なくなった。サントリーホール、東京文化会館、東京芸術劇場あたりが限界かな。NHKホールでは大きすぎる。演奏者と聴衆との物理的な距離は重要な要素になる。豆粒のような姿を生で見ていて、遠くから聞こえる音楽を聴いていても隔靴掻痒だ。
 商売として考えればマスの大きなところにたくさんの人が集まってくれて入場料収入が増えればそれが正解ということになるのだが、音楽文化とか芸術表現の場としてのホールという見方をすれば、大いに疑問だ。もっともどこかのスタジアムで有名な声楽家の演奏会を企画して、しかも何万円もするチケット価格をつけても満員の盛況なんてこともあったのだから、日本人の意識はどうなのかと不思議な気がする。名前とか肩書きに弱い日本人は結構多数派ではないかな。
 クラシックの音楽会はどうしてもライブ感は少ないから、客席と舞台とでいっしょに歌ったり、踊ったりする音楽のほうが魅力的か、と素直に認める南こうせつのライブだった。



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