徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百六十二段*<感覚>2009.4.8

 味覚、聴覚、視覚・・・感覚とは曖昧だし、だがその人が感覚をもとにして判断することは多い。
 まずは味覚だ。これがはっきり言うと曖昧で、確信が持てない。多分に体調に左右されたり、年齢に左右されたり、空腹感に左右される。
 その頼りない感覚の中ではっきりしているものもある。それは、化学調味料の味だ。これはなんとなくわかってしまう。最初にもわかるが、食べているうちにもわかってくる。味に飽きるし、舌にまとわりつく感じがするのだ。日本食で特にわかりやすい。それと値段の高さ、敷居の高さ、格式の高さが味に比例するとは限らないということも言える。もちろん逆に、正しく比例していると感じる時もある。

 割合は、逆が多いのだが。老舗といっても、食べ残しを出して発覚し、会社が無くなってしまったところもある。食べ物は生きる原点の一つの重要な要素だ。命にもかかわる。それを提供するものが、偽装や期限切れのものを販売してどうなるのかとはおのずと知れるだろうに、その時には、思いも至らなくなるのか、最初から志が低いのか、拝金主義になってしまったのか・・・原因はいくつも重層的に存在しているように思う。

 聴覚にしても曖昧模糊としている。空耳なんて言葉があるのだから、これも微妙だ。悪口は大きく本人には聞こえるとか・・・、音楽は聴覚を多く駆使して聴いているのだが、それにしても演奏者に好意を持っていればよく聞こえたり、他の演奏者よりも大きく聞こえたり、知らないうちに心が耳を支配しているかも、と感じたことはないだろうか。

 視覚も同様で、演奏会などでソロの人が演奏すると、その人の音がクローズアップされて聴こえる。一般的にピアノコンチェルトでは、生演奏の時のほうがピアノの音は大きく聴こえるという錯覚もあるようだ。そのまま、手を加えずに録音をしてみると、ソロのピアノがやや小さめに聴こえて来る。それを承知で生演奏を聴くというのがまた、楽しみでもある。生演奏は万が一の失敗もあることだし、難しいパッセージやつぼを外しやすい音のときには指揮者もドキドキする。失敗も想定内にしておくことが結果は良く終わることが多い。指揮者の緊張が演奏者に伝わるのもたまにはいい結果を生む。そして時には緊張ゆえの失敗をもたらすこともある。

 このいかにも人間くさい結果が生演奏の醍醐味だ。無論、練習不足で失敗してしまうレベルではだめだ。醍醐味よりも興ざめだ。ほとんど完璧が予想できるのに、ひょんな原因で間違ってしまう。フィギアスケートに似ているかもしれない。
 プロの演奏家が失敗して気持ちの動揺を抑えているその姿も私は好きだ。



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