徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百六十四段*<モーツァルトのレクイエム>2009.4.12

 モーツァルトのレクイエムは難物だ。不遜な言い方になるのだが、モーツァルトは私の中での苦手な作曲家の一人なのだ。その天賦の才能に私がついていけないのが大きな要因で、もちろんモーツァルトのせいではないのは断言できる。

 多くの曲の中で、数少ない短調の作品が好きで、「レクイエム」はその代表ともいえる名曲だ。生涯の最後の作品、つまりモーツァルトの白鳥の歌になる。残念なことに、ちょうど曲の半ばに位置する「涙の日」で筆が途絶えてしまった。つまり、作曲の途中での「死」ということだ。このことが、この曲の価値をも難しいものにしていることは当然だろう。
 弟子のジュスマイヤーが後の部分を作曲し、この版がスタンダードとして認知されている。

 未完の作品を、弟子や研究者が作曲者の意図を汲んで、そのあとの部分を書き加える。この流れも自然な流れだ。そして、ジュスマイヤー版はよくできている。終曲を、最初の「キリエ エレイソン」と同じ旋律を用いてモーツァルトを彷彿とさせて全曲をまとめた。いままでに多くの人が、この曲をモーツァルトの「レクイエム」として認めてきたのだから、弟子の力は大きい。

 さて、演奏だ。切れ味鋭く、速めのテンポで情緒をあえて破棄したかのような、カール・リヒターとミュンヘンバッハの演奏は約50分、ジュリ―ニが晩年に録音したフィルハーモニア管弦楽団の演奏が約60分、時間にすると中間になるのが、リリング指揮の演奏で約54分・・印象は大きく異なる。

 少なくとも、私は二回、指揮をしている。解釈のよるべきところは、リヒターだった。また指揮をする機会を得たので、聴きなおしてみた。その間に10年の時がたった。なぜかリヒターのテンポが速く感じて、違和感を覚えた。この感覚の変化の分析を自分なりにしているところだ。

 これだけの名曲だ。手元にも10種類を超える音源がある。それにしても、ケルテスの指揮は今聴いても新鮮だ。テルアビブの海岸で死去したのが、44歳、あまりにも早い「死」だった。デビューとなったドボルザークの「新世界より」は鮮烈な演奏だった。この「レクイエム」もやや荒削りだが、指揮者の思いのあふれる演奏になっている。「思い」や「あふれる」と称せる演奏が最近はあまり聴けなくなったと、しみじみ思った。



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