徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百六十九段*<想い出の断層−66−>2009.4.21

 4月は父が他界した月だ。85歳での死は寿命ともいえるが、まだもう少しという気持ちは勿論ぬぐえない。もう11年も経つのだが。夢ではいつも元気な姿だ。どんな父だったかをあらためて思い出してみた。

 北海道、江差町の網元の末っ子だという話は聞いていた。「にしん」が大量にとれていたころだから裕福な家だったとも話していた。長兄が誰かの保証人になり、だまされて家をつぶしたとも。父は1万トン級の船の船長になろうと思い、水産学校を目指して、姉の嫁ぎ先の千葉に受験のために来葉し、姉に腕試しに師範学校を受験してみてはと勧められ、受験したら合格したので、そのまま水産学校ではなく師範学校に行ったとのことだ。父親から聞いた話だった。なぜ、水産学校が師範学校に?といま思えば不思議な気もするが、父からその理由を聞いたことがない。生前に聞いておけばよかった。
 ちょっと軽い決断のような気もするが、姉を慕っていたことはわかるので、その姉の勧めに従ったのかも知れない。

 戦前の話だから、もし、船員になっていれば太平洋戦争で戦死は確実だろう。そうなると私は生まれてなかったことになる。師範学校・・・つまり教員養成の学校に進み、教師になり、戦争では最前線には行っていないことで、戦死を免れたということだ。
 父がどういう教師だったかはよくわからない。理科系が専門だということ、東葛飾郡の中学校に赴任したこと、結婚して私の兄二人が生まれ、それから、釜山の日本人学校で終戦を迎えたこと、引き揚げの時に家族離れ離れになったこと、日本に帰ってから妻、息子と再会できたこと、友人を頼って千葉県の柏に住まわせてもらっていたことなどは聞いている。戦後のことだ。教師が足りなく、そのせいか35歳で校長になっていた。

 わが子には厳しく接していたようだ。立ち木に縛ったりして罰を与えたこともあると聞いた。ただ、この引き揚げの時の一時離散が父にはこたえたらしく、その後は、非常に優しい父親になった。兄たちの母親にあたるその時の奥さんは体調を崩し、幼い兄二人を残して急逝、私は、今の母親の子供ということになる。兄二人にはスパルタ式にしつけをした父だが、私と妹には全く逆の甘い父親になっていた。それは、引き揚げ船での体験からだと本人が言っていた。生んでくれた母親を早く亡くした兄二人は、悲しい思いだっただろう。私は、恵まれて生まれた。ただし、終戦後のまだ経済の苦しい時代だ。食糧や教師の薄給で4人の子供を養うのは大変だったことは容易に想像できる。

 私の心の中には、兄たちへのなんとなくのすまなさが残っている。生まれる時期や親を自分で選べるわけではないのだということを十分承知していても・・・だ。兄たちが大学進学の時には私立大学への学費の余裕がなかった。

 こんな風に思い出していると、父は夢に出てきてくれるだろうか。本当に可愛がってくれた優しい父だった。



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