徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百七十一段*<想い出の断層−68−>2009.4.25

 前前段から父のことを書いている。引き揚げる際に家族が同じ船に乗れず離れてしまい、一時行方不明になったことが、父が我が子に対する姿勢を変えた。父自身がそう言っていた。もし、このまま妻子と会えないかもしれないと思ったら、息子二人を厳しくしつけをしたことを後悔した。と・・・

  記憶に残っている子供の時から成人するまで、常に優しい父親だった。私の記憶には、仕事としては中学校校長の時の父しかないのだから、仕事ぶりは想像でしかわからない。しかし、尚美学園卒業の年度に、私は音楽の教員免許取得のために教育実習に行くわけだが、なぜか、一度は父親の仕事を見ておきたいと思いたち、長崎と沖縄出身の学友2人が受け入れ学校がなかったことを幸いに、そこに私が加わり、3人で父の勤務している中学校への教育実習を受け入れてくれるようにお願いをした。私は父との関係は一切伏せて。何しろ学校自体が2千人を超えるマンモス校だったし、教育実習生を3人引き受けることはたやすいことのようで、教職員が100人近くもいるのだから、その中で埋もれて実習をすることができた。それで父親の仕事の一部を見ることができた。とはいっても、2週間の中で校長先生に出会うこともほんの少しで、音楽科の教諭だけでも4人はいる中での実習だったので、覚えているのは、私を担当してくれた音楽科の先生だけなのだが。
 この実習した学校へ、教師になってから13年後に3校目の中学校として私自身が勤務するようになるとは、もちろん夢にも思っていなかった。校長室にある父親の写真を時々目にしながらの勤務だったことが懐かしく思い出される。

 毎日帰宅時間の遅い父とは、日常ではそれほど話をしたようには思えない。でも、会話が少ないとも言えないし・・・、父の心配を感ぜず、私が勝手にいい加減な生活をしていたのが正直なところだと思う。経済的に苦しい中でも、小学生か中学生までは映画に連れて行ってくれたし、夏はプールのある谷津遊園や船橋ヘルスセンターに行っていたし、ボーナスが出れば新しい服は買ってくれたし、で、子どものころはあまりお金がないことは意識をしなかった。高校生くらいからか、苦しい家計だと分かってきたのは。

 包容力の大きな人だったことは容易にわかる。高校の留年の時も何も言わなかったし、大学の中退の時も何も言わず、成人してからの音楽への方向転換にもあまり言わず、一つだけ言われたことは、高校生の時か・・・「音楽では飯が食えない」と音楽をやることには反対された。音楽を学ぶには晩学になる息子を心配したのと、何より、お金がないことが反対の理由だったことを聞いたのはずいぶん後になってからだった。
 音楽の教諭として就職したことでホッとしてくれたのだとは想像できる。時々言われたのは、教員は教頭や校長になるのが良いわけではないのだ、ということだった。自分が校長なのだからそれを目指すのを期待しているのかと思ったが、それは違った。父はどちらかというと、反権力であり、筋の通らないことや理不尽さは許さない人だった。校長として教育委員会にもはっきりものをいう人だった。一つ、二つの武勇伝ももれ聞いている。私もそこだけは父のDNAを継いでいると思える。

 筋は通すが、考え方そのものは柔軟な父だ。ホンダのスーパーカブの初代にいち早く乗り、車の免許は退職の1年前に取り、退職後は教育関係の団体に役員として20年勤めた。そこでも新しい事業をやり、多くの人が父の能力の高さと人格を認めていた。社会人となった私も当然尊敬しながら父の晩年を見ていた。何といっても、私が兄弟で一番かわいがられたのではないかと思うくらいに私に優しく甘い父だ。その父の「死」を死ぬ前に考えたとき、できたら私が先に死んでいたいと思った。父の亡くなったことに自分が耐えられるのか自信がなかった。それでも、そうなった時には、私もそれなりの年齢になっており、仕事でも責任のある立場になっているし、個人の感情を優先できる状況にもなく、従容として受け入れることができた。それがあるべき姿なのだと思う。父から息子へ、息子から孫へと引き継がれてゆく命の継承の一部の役割を、誰もが果たすのが人間の義務なのだと思えるようになった。それでも、亡き父や次兄のことを思えば胸が詰まる。夢に見る。心の喪失感は、仕事の忙しさでは本当には埋めることはできない。厳しい現実だ。



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