徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百七十八段*<流言飛語>2009.5.9

 合う人、合わない人、相性のいい人、相性の良くない人・・・断言はできなくても、なんとなくそのように感じる人がいる。理論的にその理由を分析すればできるのかも知れないが、現実には不可能に近いだろうから、理由はよくわからないままで合う人がいて、合わない人がいる、これが私の周囲にいる人たちだ。

 合わない人とは、物理的にも心理的にも距離を置くことで、心を守ることができる。多くの場合は相手も同じように感じているので、それは賢明な方法だ。物理的に距離を離すというのが思ったより有効で、それが心の安らぐことにもなる。

 難しいのは、相手が攻撃を仕掛けてきた時だ。もちろんその大部分が、体に攻撃を加えるのではなくて、目に見えにくいところでの絶妙な攻撃だ。そう、「流言飛語」というものだ。これへの対応が難しい。有効な対応策はないといってもいいだろう。悪意や嫉妬をもってそのように意図的に攻撃されると、ほとんど手の打ちようがない。

 対応には順番がある。最初は様子を見る。ある程度のところで止まればそれはなかったこととする。相手が普通の人間ならそこで事態は収束する。さらに攻撃が続くとしたら・・・限度を越えれば、逆襲の手段を考えるしかなくなる。人間社会は、本当に人と人との関係で成立している。つまり、間接的に逆襲をすることができる機会がたいていあるのだ。私はそれを知っているので、相性の良くない人に、あるいは自分と考えや行動が合わない人にも攻撃を加えるようなことはしない。攻撃は反撃となって、また自分に降りかかってくるのもわかっているから。

 正当防衛や専守防衛はせざるを得ない。私の身分や仕事に顕著な影響があると判断した時には、だ。
 聖路加病院の日野原重明先生は、「赦す」ということが必要だと説いておられた。どこかで「赦す」ことをしないと、恨みは永遠に消えないということだ。そのとおりだ。しかし、私には「赦す」ということがそう簡単にはできない。広島の原爆資料館に行った時にその思いを強く持った。残された焼けた三輪車や影だけが残っている石塀、焼けちぎれた制服の一部・・・これを見て「赦す」ということは私にはできないだろうと思った。本人や身内の方の無念さはいかばかりかと・・・第三者である私が・・・だ。

 自分の小さなことを書こう。私がその人に対し、何の攻撃を加えることもなかったし、私の存在がその人にマイナスを与えることもないのに、その人が誹謗中傷を加え続けるとしたら、逆襲しかないか?
 こんなことをとりとめなく考えてみた。始末に負えないのは組織の「長」がその「流言飛語」を信じてしまうことだ。私だったら本人に直接確かめるのに。そんな「長」のところで働いたことが何回かはあったなあと思いだした。もっとも、そのおかげで私の早期退職の決断をすることができたのだから、そのどうにもならない「長」との出会いに感謝をする・・・という思考もできるということだが。



 二百七十七段へ   二百七十九段へ