徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百八十二段*<蟷螂>2009.5.20

 最近気がついたことがある。あきらめの良さ、だ。
 わかりやすい例を思い出した。お酒だ。若い時は、コップにビールやお酒が残っていると、それを全部飲みほして、飲むのは終わりだった。今は、残っていても飲みたくないと思ったら、それを捨てることができるようになった。これは喜んで良いのか、悲しんで良いのか、微妙なところだ。体にはその方が良いのだろうし、残ったお酒を飲みきれないのは老化?とも思えるし・・・。


 何となく、生きものはこうやって残すものが少なくなっていって自然に死に向かうのかと思えば、何となくでも納得ができる。このへんの感覚は本当に「何となく・・・」なのだが。

 やり残したことが一つ増えた。自分より少なくとも10歳以上の年長者を大切にするということだ。この長幼の序、敬老を忘れてはならないと思った。昔のことを忘れてゆくのと同じように、年長者のことを思う気持ちが薄れる。私も油断をするとそうなってしまう。だが、今日の自分があるのは、その時々の私の先輩の存在があったればこそ、だ。

 もし、私の先輩が高齢化して叶わぬことがあったとしたら、私は喜んでその先輩の役に立とう、と思う。それは世の中の風潮が、先達の人たちを軽んじていると感じるからでもある。世の中の流れに逆らうとしたら、それは無駄骨かも知れない。そのことこそ「蟷螂の斧」というたとえにぴったりだ。「蟷螂の斧」・・・この言葉を使うのは三回目か。

 ということは、私自身が「蟷螂」ということだ。それを、よし、としよう。この強者に立ち向かう精神は亡き父から授かったものだ。父は蟷螂ではなかったが・・・。蟷螂でも小さな斧は持っているのだし、それを武器に立ち向かうだけだ。

 できれば「蟷螂」の仲間が増えてくれればいいのだが。ミツバチがスズメバチと戦うときは、集団で取り囲み、その時に発する熱で強大なスズメバチを殺すそうだ。もちろん、何匹もの犠牲と引き換えだ。そんな仲間がいてくれればうれしいが、そんな犠牲を強いるわけにもいかないから、一匹の「蟷螂」でいよう。



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