徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百八十九段*<クラシックのCD>2009.6.8

 近くのCDショップに時々行ってみる。売り場の中でクラシックの占める割合はほんの少しで、陳列してある数本の僅かだ。その場で買えるものは限られるのだが、たまに「おや?」と思える物に出会えることがある。

 今日はベネデッテイ・ミケランジェリのピアノの、ベートーヴェン/ピアノ協奏曲第3番を見つけた。1979年の録音、ジュリーニの指揮でのウィーン交響楽団の組合せだ。ミケランジェリもジュリーニのウィーン交響楽団も久しぶりに見る活字だ。ミケランジェリは確か自分の弾くピアノは世界中、運搬していた。キャンセルが多いからマネージャー泣かせだとか、鬼才と呼ばれていた。スカルラッティの曲の録音をしていたことが記憶にある。
 ウィーン交響楽団は、サヴァリッシュが常任だった。N響に客演で来日をし始めたころだ。ウィーンフィルに習って呼べばウィーンシンフォニカー・・・だ。ジュリー二は晩年のような極端に遅いテンポを予想したがそうでもなかった。

 鬼才も楽聖ベートーヴェンの前にはオーソドックスにならざるを得ないのかも知れない、と想像をたくましくした。
 芸術もすべては人間の活動だ。作品の中や表現の中に「にんげん」を感じたり、想像したりするのは楽しくもあり、そこに、生きている芸術、何十年と時が過ぎても価値が残る芸術が存在しているのだという思いを強く持つ。

 それにしても、都心に行かないとクラシックのCDがうまく手に入らないことが、需要と供給のバランスの故と考えてもなにかさびしい。ネットで注文すればほとんどのものが手に入る時代だ。それでもいいのかも、とも思うし、音楽や書籍の販売にはコンビニとは違う文化の担い手としての価値観を期待するのは今では無理なのだろうか。クラシックや純文学だけが価値あるものとは思わないのだが、真夜中にたまにテレビで放送されるオーケストラの番組を発見しては(本当に発見だ)、大げさに書くと資本主義の行き過ぎのなれの果てか、と思ったりする。



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