徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百九十二段*<指揮者の晩年>2009.6.10

 ある民間放送の番組を見ることができた。オーケストラの放送だ。曲目はベルリオーズの「幻想交響曲」・・・演奏のことを書こうとしているのではない。オーケストラの人たちは頑張っていた。指揮者の解釈も指揮の仕方もここでは書かない。
 書きたいのは、放送されている「時間」だ。真夜中の三時・・・フルオーケストラの熱演の放送がこの時間か、と改めて思った。

 自分の中学生、高校生の時の、夕方や夜に放送されていたオーケストラの番組は「夢」だったのか、とも思った。24時間のテレビ放送はされてなかったころだ。現在は、地上波もBSもほとんど24時間放送だ。だから時間帯も多くあるし、録画もできると言ってしまえばそれまでだ。
 それでも、リアルタイムに見ようとしたら真夜中にしか見ることが出来ない。これを不自然とは思わない我々の価値観と文化感だと無理やりに納得させるしかないのか。

 音楽評論家の黒田恭一さんが亡くなられた。クラシック音楽の栄枯衰退を何十年も見てこられた方が、また消えてしまった。月刊誌の冒頭にエッセイを書かれていて、つい最近も読んだばかりだ。この一年ほどのエッセイはすべてに核心をついていた。若いころの評論には私なりに異を唱えるところも多かったのだが、最近のエッセイには深く納得をしていた。

 指揮者のジョージ・セルが亡くなる直前に、ドヴォルザークの交響曲第八番を録音した。レーベルはエンジェル・・・それまでのセルのイメージとはかけ離れた、哀愁とロマンティックな表現に驚いた。その前にCBSに同じクリーブランド管弦楽団とのコンビで同じ曲を録音していた。厳格とも冷静ともいえるその時の録音とは全く違うものだった。第三楽章の繊細の極みを尽くした表現は・・・何にも例え難い。
 これも、亡くなる半年前に来日した時のシベリウスの二番の交響曲が入魂の指揮だった。その時のテレビ放映のモノクロの画面が、今でも目に浮かんでくる。

 晩年のカラヤンの指揮も魂がこもっていた。完璧を期して録音と録画を続けたスタイリストの姿からはかけ離れた人間、そのものを感じさせてくれた。指揮者には二通りあり、晩年に体の衰えをもろに感じさせてしまう人・・・バーンスタイン、マルケビッチ、マタチッチ、オイゲン・ヨッホム、カール・ベームなど・・・と、老いを感じさせない指揮のままでこの世を去る人とに分けられる。ミュンシュ、ピエール・モントゥー、渡辺暁雄、岩城宏之、カール・リヒターなど・・・
 それは当人にも分からないことだし、どっちがいいとか悪いとかの範疇を超えた出来事だ。指揮者は音楽家として一番高齢まで舞台に立てる職種かも知れない。それは一面嬉しくもあり、一面厳しい事でもある。



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