徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百九十六段*<飲み会>2009.6.26

 「飲み会」・・・で通用するのかな。複数でお酒や料理をともにし、会話を楽しむ会合を称して「飲み会」といって通用するのか、とりあえずは私の中でのそのような会合は「飲み会」だ。飲み会が終わった後の心持というものがあり、これが意外に満足するのが難しい。

 わかりやすいのは義理でとか義務で参加する飲み会(これは宴会か)で、このような会合は最初から「義務」と分かっているから、義務を果たしただけで満足というか、満足も何も意識がないのだから、心も動かなくて、これはストレスが少ない。わかりにくい言い回しだ。宴会のその場でのストレスは「義理」「義務」だから大きいのだが、終わってしまえばしめたものだ。解放感でストレス解消!

 思ったより後味として残るのが、同好の人たちとの会合だ。仲間だと思っている人たち・・・これが難物だ。はっきりしているのは、未来を語れない人との会合はつまらないし、後味が悪い。未来というのは遠くのことを指すのではない。三ヶ月後のこと、半年後のこと、一週間後のこと、明日のこと、とにかく未来の話を聴くのはエネルギーの補給になる。最悪は過去のマイナス経験や、否定的なことを聞かされる時だ。この非生産的なところと、自己否定になること、つまり負のエネルギーを感じてしまうときが要警戒だ。
 人は否定的な話は楽しくなく、肯定的な話は楽しいのだ。
 そして、「自分は毎日が大変だ!」「苦労しているんだ!」といってしまう人。これも駄目だ。老若男女を問わず、「生きること」「生活する」こと自体が大変なことのはずだ。誰もが必死の毎日の連続なのだ。自分だけ・・・と思うのは完全な錯覚か、自分本位の人なのだろう。自分には自分の大変さがあり、他人には他人の大変さがある・・・これが分かっているから己の大変さは言いたくても我慢をして言わない。これは家庭でも職場でも仲間内でも同様だ。
 もちろん軽く冗談のように言うのは、聴く方も軽く聞けるからOKだ。
 困るのは「飲み会」のときに、真剣に理論的にとか感情的にとか、その人の意見を主張されるのが迷惑千万だ。食事やお酒を飲むときは「楽しいひと時を過ごす」これに尽きるのだ。

 つくづく思うのだが、幸い義理の会合は少なくなってきたから、義理とは思っていない会合でマイナス思考の人のいない会合を選ばなければならない。飲み会がおわって、なんとなく笑みが浮かび、少し先の未来を創造する・・・これが気持よく眠れる必須条件だ。最近は「飲み会」をシビアに選んでいるのだが、今日の飲み会は「疲労の会」だった。作り笑いが疲れた。幹事さんの、義務感を感じる必死の盛り上げには感謝をしつつ、申し訳がなく、笑い声に虚しさを感じ、こんなに若い人に無理をさせてしまっていることに思わず心の中で手を合わせた。

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