徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*二百九十八段*<梅雨には、やはり…。>2009.6.30

 七月になる。学校だと、学期末だ。子どもにとっては夏休み前の、心躍る時でもあり、教師にとっては、学期末の成績処理に追われる頃でもある。二学期制の学校だとそうではないだろうが・・・。そういえば、二学期制って、学校現場ではどうなっているのだろうか。一時期、競って導入した学校がいくつもあったが、その後の様子はどうなのか、ちょっと気になるところだ。圧倒的に二学期制が拡大したのか。
 二学期制とか男女混合名簿とかあまり意味のないものにエネルギーを注ぐ余裕なんて学校現場にはないだろう。

 教育の特徴は、人気商売ではないということだ。新しいものに何でも飛びつくのは、利益至上主義の商売ならいざ知らず、学校教育では本来不要な考えだ。その分人気に頼れないから教師の真の力量が必要なところでもある。
 管理職の力量も同様だ。学校の草花の栽培や、校庭の草抜きや、あいさつ運動を先頭に立ってやるからいい管理職ではないだろうに。指導力のない教師、夢や理想のない管理職のもとでの学校教育は「悲惨」といってもいいだろう。民間人からの管理職登用を積極的に進める教育委員会があればそれは自らの行政委員会としての力量不足を認める行為ではないか。学校教育も「なんでもあり」だ。政治と同じか。

 関東地方の平野にいると、梅雨のころは特にもう少し湿度が低く、気温も低く、過ごしやすい気候にならなのか、と贅沢な望みを持ってしまう。高温多湿は日本の夏なのだが、これは心身ともに疲れる要因でもある。

 高原で数日間を過ごせば、一時の気持ちの変化にはなる。いつも渇望して生きているのも必要なことかもしれない。永遠に達せられない渇望は、渇望とは言えないだろうから、渇望はいつか満たしたいものだ。とりあえずは、緑と鳥の声と川のせせらぎとひんやりとした空気を味わいたい。またまた同じようなことをこの段でも書いてしまう。標高千メートル以上の場所に行くしかないのだ。

 十代後半から気ままに、いろんな所に行っていて、近場の行きたいところは、ほとんど行っている。仕事も絡めて考えれば、渇望は満たされているはずなのだが。同じところを再訪したいのかも。これが、老齢の知恵か本音か・・・分析はできない。ひたすら、緑に包まれたい。簡単にいうと、梅雨の時を少し快適に過ごしたいというわがままの一つでもある。清里、蓼科、奥志賀、妙高・・・どこでもいいな。泉質のいい温泉があればいうことなしだ。

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