徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百十一段*<指揮法>2009.7.31

 「指揮法ワンポイントアドヴァイス」との名称で、所属のNミュージックプランニングのホームページに10項目のアドヴァイスを書いたのだが、文章で指揮法を伝えるということが「予想」よりも難しく、もう「よそう」か、とも思う最近だ。

 技術を文章だけであらわすのは不可能に近いほど難しい事だとわかった。「指揮法教程」を著した斎藤秀雄氏や、それを元に「指揮法の基礎」を書いた私の師でもある高階正光先生は、想像もつかないほどに素晴らしいことをされたのだと改めて思った。

 それらの本を読んだり、DVDやビデオなどで指揮の勉強をした人が、受講者として来ることがある。本を読んだり、映像を見たり・・・と、その程度の努力でまともな指揮ができるようになれば苦労はないのだが、そうそう上手くことは運ばないことが多い。

 独学で習得できるケースには前提が必要になる。基礎の基礎を正しく学んである、という前提だ。それを前提とすれば、そのあとは独学で進歩することも可能だろう。それでも、人間ドックや定期健診ではないが、定期的に第三者の診断を仰ぐことも必要なことになる。

 習う、得る、工夫する、己のものにする、診断を受ける・・・このサイクルは別に指揮法だけに限ったことではなく、生きる上での必要条件のように思える。教えを受ける、自分のスキルにする、それを生かす、そしてそれを次に伝達する。このサイクルも職人や芸術家にはやらなければならない義務ではないか。伝統的に代々引き継がれてきたものでも、後継者が途絶えればそこでおしまいになってしまう。地味な仕事ではこのケースは大いにあり得ることだ。普遍性を持って多くの人にその技術が伝えにくいジャンルだとことさら、継承がうまくいかないかもしれない。はたして「指揮法」はどうなのだろうか。基礎を全く身に着けずに指揮者の役割を果たす・・・これは、暴挙とも思えるのだが、現実の音楽の世界はどうなのだろうか。

 おなじ人間の営みだ。音楽を生業としている人をプロというのだとしても、その中間の人、音楽教師、趣味での音楽活動、すべてに共通するものだ。「指揮法」はプロの指揮者が学べばいいものだとは限らないだろう。

 単純に考えても、「見にくい」「みにくい」指揮よりも、「見やすい」「美しい」「演奏しやすい」指揮ができる方が、演奏家にも指揮者にも幸いだと思うのだが。

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