徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百二十三段*<演奏会を終えて…>2009.8.27

 習志野文化ホールでの演奏会が終わった。今回はコンマスが「ぎっくり腰」で注射を打ちながらの出演だったり、一週間も熱の下がらない団員が居たりと、本番当日直前にアクシデントがあり、一抹の不安を抱きながらの本番当日になった。無事に演奏会を終了することができた。
 今回も、懐かしい人が来場されていたことが、アンケート用紙から分かった。初任の時の学校の合唱部の卒業生、二校目に勤務した時のオーケストラ部員のお父さん、30年前くらいに出会った人たちだ。その二校目の校長先生も来てくださった。もう80歳代の後半だろう。何よりもお元気なのがうれしい。
 舞台の上で指揮をする自分とそれを聴いてくださり、見てくださるそれらの人たち・・・言葉を交わすことはできないのだが、音楽を挟んで目には見えない「精神」の交わりができているのだと信じる。

 仕事で遠方に行く。新幹線や地方の電車に乗る。新幹線ではだれもが無口だが、地方の電車だと様子が違う。ドアーを乗客が開閉ボタンを押して乗り降りするのも珍しいし、乗客の会話のアクセントが微妙に違う。当然とは思いながらもこれを聴くのは楽しい事だ。

 ある駅の新幹線へのコンコースのトイレを利用しようと入ったら、驚いた。トイレが洗浄器つきになっていた。駅のトイレといえば、私の記憶にあるのは、公園等にある公衆トイレの次にきれいなイメージがない。清掃管理する側もわれわれ利用者もそんなものだと思ってきたか、自分のもの以外は粗末に扱う日本人の文化レベルの象徴の一つだと思ってきたのだが、今日は、この洗浄器つきトイレに素直に驚いた。泊まったホテルに洗浄器がなかったことの落差があったからか。
 日本中の駅のトイレが清潔感あふれるものになったら駅の混雑の中のオアシスになるかも知れない。思い出した。学校のトイレも気持ち良いとはいい難い。慣れは時には必要だが、慣れすぎるとせっかくの改善する機会を見逃すことにもなる。人間の存在自体が相反するものだと思えば、トイレの清潔さの違いの極端さも理解できるというものだが、生活環境は清潔なことがいいのは間違いがない。

 駅や学校など公的な施設が一番時代の流れに遅れている姿は正しいのか?こんなことからも日本の国の様子が推察できる。

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