徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百二十八段*<「長」の役割り>2009.9.9

 指揮者の存在感を出すのは難しい。とあるオケの練習で感じた事だ。練習ということを差し引いても緊張感の無さが何とも言えない空気を醸し出していた。一部のプロの演奏家はこれだから嫌になるよ、と改めて思った。何だかクラシック音楽の演奏家が自分で自分の首を絞めているようにも思えた。本人はそうは思ってはいないのだろうから最悪だ。音楽家は所詮KYか・・・。断言は禁物だ。一部の音楽家は、と書き換えよう。

 人間にはこの世に生きている間に果たすべき分担があるように思う。神ではないのだから万能はありえず、同じくらいの能力を持った人間同士の分担で社会が成り立っているように思う。時に突出した才能を持っている人間も現れるが、その人はすでに私たち凡人とは異なる能力を持っているのだから、別格だ。それにこの人たちは何を持ってもあまりある魅力を兼ね備えている。

 レベルでいうと、凡人よりも少しだけその道での才能がある・・・この人たちが意外に扱いにくく、それなのに意外に力をふるったりもする。これが困りものだ。一流半という半端なポジションにいる人、みんなの周りにいませんか、思い当たる人・・・

 さあ、指揮者とか組織の長の役割だ。いろんな人を統率しなければならない。漠然とだが、最低二つの条件が必要だろう。ひとつは、オーラというか束ねるエネルギーというか、「長」にふさわしい力だ。もう一つは、人事権だ。簡単にいうと、だめだと判断した人を異動させる権限だ。現在のクラシック音楽界の指揮者はこの二つを同時に持つことはありえない、と断言できる。おそらく会社も同じような面を持っているのだろう。音楽も産業の一つだと考えれば会社と同じだ。客演指揮者は雇われママのようなものだが、雇われてはいてもお店を繁盛させることはできる。雇用が安定すれば雇われ者でも力を出す時間が与えられるが、アルバイトのように、数日間の練習と本番の繰り返しでは、その瞬間は良くても長続きはしない。

 指揮者も財力や経営能力が高く、かつ志があればオーナーを目指すのだろう。残念ながらクラシック音楽の世界は、それほど利益が上がるようにはなっていないようで、オーナーの指揮者はほとんど発見できない。マルコム・サージェントかトーマス・ビーチャムか、昔のイギリスには指揮者個人がオーケストラを持っていた人がいた。
 さらにはオーナーではなくても楽団の団員採用を左右し、入れ替えを断行する大家といわれる誰も逆らえない大指揮者がいたが、今は昔の物語だ。

 そういえば、政党の派閥も小選挙区制になり、政党助成金での政党運営になってからは派閥の「長」の力が落ちたといわれる。同じ人間のやることだ。政治も音楽も同じだろうと思えば思えるし微妙に違うだろとも思える。組織の「長」は大切だ。これは断言できる。

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