徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百三十四段*<再現者…指揮者のポジション!?>2009.9.18

 熊本城が400年も建築当時のままで現存していることを初めて知った。前段の「歴女」には怒られそうだ。有名な加藤清正の築城とは知っていた。これで少しは許してもらえるか。天守閣が今のビルの6階建ての高さだとか、敵の攻撃を防ぐための「忍び返し」とか、場内に井戸が100以上も掘られてあるとか、たいしたものだと感心するばかりだ。戦国武将にあこがれる「歴女」の存在もなるほど、とうなずいてしまう。

 組織と個の存在を考えてみた。個人で400年も生きるというのはありえないことだが、組織は個人よりもはるかに長命だろう。組織も「個」から始まった筈だ。「個」は長く存在することは難しいが組織は可能だ。芸術も同様か。個人の作り出すものが芸術では圧倒的に多い。絵にしても作曲にしても、グループでの創作は稀だろう。「個」は滅びても作品は残る。これも真実だ。表現者としての「音楽家」といわれる人は生き延びるのが難しい。

 創作者と再現する人を分けなければ芸術を語れないのが音楽の世界だ。この両者の関係は厳しいものがある。曲として作曲してあっても譜面の上だけでは何も伝えられない。表現する技術があっても、元の素材、つまり曲がなければ表現することもできない。これが演奏家とか指揮者の立場だ。その中で意外に指揮者が惨めなのは、自分では音を出せないということだ。音で勝負するべき音楽で己では音を出せないとは・・・。楽器や声帯を使って音を出せる演奏家や声楽家に比べるとなんとみじめな存在か。

 と、これはあまりにネガティブな発想だが、やってみたい仕事・・・一位が「指揮者」なんていうアンケート結果を目にすると、「ええ?そんなにいいものでもないのに・・・」と首をかしげる。ソロといわれる表現方法と、多くの人数で表現する合奏や合唱があることを思えば、指揮者は必要不可欠でもある。何十人、時には何百人の人たちをまとめて音楽の表現をする。もしかしたらここに魅力を覚えるのかも知れない。持っているものは指揮棒一本だし、指揮棒も持たないときもあり、そうなれば腕一本か一本半くらいで何百人を動かしているように見える(あくまでも「見える」ということだが)のが、隣の芝生がよく見える、のたとえのような錯覚に陥るのかも知れない。

 音楽の再現者の役割を担う一部の存在である指揮者だが、今でもフルトヴェングラー、カラヤン、バーンスタイン、二キッシュ、トスカニーニ、クリュイタンス、ミュンシュなどの録音が健在なところをみれば、それでも辛うじて生きながらえているという感もあり、なんとも存在自体が微妙なポジションに立っているのが「指揮者」といわれる職業だ。

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