徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百三十七段*<偉大なるベートーヴェン>2009.9.22

 「白州次郎」三日連続の二日目、途中でベートーヴェンのピアノ協奏曲第5番「皇帝」の第二楽章が流れた。アダージョの第二楽章からそのまま第三楽章のロンド、アレグロに突入する。斬新だ。転換の妙だ。この部分はドラマで使われやすく、かつ印象に残る部分だ。映画「不滅の愛」でも、終わりの方で同じように使われていた。

 ベートーヴェンのピアノ協奏曲は全五曲、それぞれに魅力があるのはもちろんだが、第5番「皇帝」はまた別格だ。ハイドン、モーツァルトの音楽を継承するような、ベートーヴェンの初期の作品から、突如として変貌を遂げるのが、なぜか奇数の番号の作品からだ。交響曲では第三番「英雄」・・・突如としてテュッティでの二つの和音から始まる。序奏があると思っていた当時の人はびっくりしただろう。次の交響曲の四番では普通に序奏がある。そして五番になると有名な「運命がこのように扉をたたく」といわれているあの四つの動機が示される。そして六番の牧歌的な「田園」につながる。この落差は何だ?と問いかけたくなるくらいだ。

 ピアノ協奏曲でも五番になると、突然のピアノと管弦楽の和音から始まる。四番もロマンティックさにあふれ、短い二楽章なんて涙が出るほどに胸に迫るのだが、四番はやはり四番なのだ。五番と四番との差・・・これは協奏曲でも交響曲でもベートーヴェンの場合は同じだ。

 実は、協奏曲は三楽章で終わり、交響曲は四楽章構成が大部分だ。協奏曲の物足りなさはこのあたりにあるのでは・・・という思いもある。一楽章、二楽章と進んで行ったあとの三楽章、これが意外に短かかったり、とってつけたような楽章に感じることが私には多い。古典派の曲はほとんどそんな感じだ。ベートーヴェンの作品から少しずつこの雰囲気は薄まるのだが、それでも若いころの作品は師匠のハイドンの作風を受け継いでしまっている。王族や貴族のお抱え楽師やお抱え作曲家として存在をしていたハイドンの作品からは、なかなか作曲家の切迫感が感じられない。人間としての悩みや苦しみ苦悩をそのまま作品に著したのはベートーヴェンからだろう。

 芸術のみならず、人間が生み出したものは、すべからく「人間」を表現する。美しいとか心地よいとかの範疇を超えた響きに私は心が動く。奇数番号の作品の突出した新しさ、これはベートーヴェンに顕著であり、他の作曲家は必ずしもそうでもない。ベートーヴェンをこよなく尊敬していたブラームスは、二番のみが牧歌的であとは切迫感あふれるベートーヴェンを思わせる交響曲となっている。五番は作曲家にとって交響曲の壁かも知れない。マーラー・・・五番の後の曲はいま一つ印象が薄い。ショスタコービチ・・・五番の後の12番までの曲はマーラーと同じ感じか、スケールは大きくなっても。ブラームスは四番が白鳥の歌になってしまった。今更ながらにベートーヴェンの大きさを感じる。

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