徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百四十四段*<人生のコーダ>2009.10.8

 二年ぶりか。昔の音楽仲間との会合があった。気のおけない人たちだ。その中の長老が、たまに気をきかせて会合に私を誘ってくれる。義理で、とかの会合ではないので楽しいものだ。
 それぞれにそれぞれの人生の時間を歩んで、それぞれが、それなりの山や谷を越えての今の時間だ。久し振りに会うと、その話が重くも感じ、しかしまた、口に出してくれるということを思えば、その人は半ば以上谷を乗り越えているのだとも思える。

 苦しい時のことは思い出したくないだろうし、考えるのも嫌だろうし、他人にも話したくないだろう。一つの出来事として、普通のように話せるようになれば、ひと山越えたということかもしれない。

 俳優の緒形 拳さんの一周忌を迎えての、役者と息子さんとの対談を読んだ。亡くなる五日前の写真があった。五日前には笑顔で写真に写っていたのに、と思った。だいぶ前のこの徒然草に書いたことのある、私が勝手に「師」と仰いでいた古谷武雄先生を思い出した。亡くなる一週間前のはがきを読み返した。とても亡くなる直前の文章とは思えない。それでもその文章を書いた日の一週間後には亡くなられた。

 人生とはそんなものか、と思う。
 こんな風に徒然草を書いていると、最近「お金が本当になさそうですね。」と読んでいる人から言われてしまった。知らないうちに嘆きの文章になっていたとは・・・。

 「想い出の断層」で文は書けても、たとえば「未来の夢」ではもう文章を書くのは難しいだろう。これは時間の経過を考えるとこうなるのだが、それにしても、いまさら夢を語るにはいささか時を逸している。自分の人生を見通しながらの総括の時か。ベートーヴェンの作品のコーダ(終結部)に入った気分だ。ハイドンやモーツァルトのように短いコーダではない。ベートーヴェンの後期のシンフォニーのコーダだ。楽章の三分の一もコーダに費やしている。敬愛してやまないベートーヴェン先生にはなれないにしても、その作風のように生きたいものだ。実は、それは私自身の中学生から高校生にかけての「夢」であったのだ。

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