徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百四十八段*<自然の中の異物>2009.10.20

 感覚的に受け入れられない光景がある。たとえば、長崎県の諫早の堤防のせき止めの光景がそうだった。これは無残なギロチンシャッターだと思った。漁業従事者はせき止めに反対し、干拓して農地を広げたところでの農業を営んでいる人はせき止めに賛成、という地元の人たちの望みが極端に違うケースの場合は新しい事業はやめる選択をするべきではないのか。
 地元の人たちの人間関係を壊すようなこと、賛成派、反対派と極端にいがみ合うことは絶対すべきではないと思うのだ。

 あのせき止め用のシャッターのセンスのなさ・・・天下一品だ。それだけでも、自然になじまない・・・自然を破壊するだろうと感覚的にわかるはずだ。
 ついでに書くと、吾妻渓谷沿いの国道を車で走っているときに突然見えたダムの橋梁の橋げた、これも自然の中の異物としか思えなかった。

 物を作り始めると永遠に作り続ける。この感覚が全く分からない。「足りる、を知る」この言葉はもはや死語か。足りる、を知らずに欲を追い続ける。神は人間をこんな生きものにしたかったのだろうか。

 自然の中に無理やりに作る建造物・・・これは何とかやめてほしいものだ。宇野功芳さんは、蓼科のピラタスロープウェーが開通したときでさえも、蓼科の良さは失われたと嘆いていた。リフトなら結構景観に溶け込むが、強大なロープウェーだと自然に溶け込むのは難しい。

 小林純一さんは、ダムを「孤独な征服者」と詩に書いた。「桜の回想」では、400年の樹齢を刻む年老いた桜…湖底の寺から移植されたその桜が、湖底に沈む前の村に人々の営みを回想する。
 「ああ、あの家の祝言を何代見てきたことだろう。嫁は決まって物言わず、客は決まって祝い唄 夜っぴて聴かせていたもんだ・・・」老木の気持ちは人そのものだろう。

 そういえば関東地方の知事がこぞって、八ッ場ダムの建築推進を声高に唱えていた。自分の県の水利のことを、よその県にダムを作ることで得ようというのはそもそもおかしくはないか。この感覚はおかしくはないのか。少なくともほかの県に迷惑をかけてはいけないだろうし、計画から50年たってもまだ出来上がっていないのだから、この時間の長さの重さを慮れば、事業自体に問題があったと思わざるを得ないだろうに。

 九州のどこかの県は、ダムをどうしても作りたいらしく、洪水の写真を別の川のものを証拠写真として使ったり、知事までもが、ダムができないとこんなに汚れた水を住民は使っているという証拠写真を、わざと鉄分のたまった排水の水を使ったり・・・議会での答弁では、下流の住民がいかに水に苦労しているかを伝えたかったのだから、その写真を使ったのは理解してもらえると信じている、・・・これだ。単純に嘘はだめだろう。ねつ造を公僕たる役人が平気でやるとは世も末だ。

 こんな、当たり前のことさえもとおらない今の日本は一体どこに進むのだろうか。

 山崎豊子さんの「沈まぬ太陽」では正義感と義侠心にあふれた社員がまっとうな主張を会社にぶつける。しかし、構造的にゆがんでいるこの会社は、その人物を事実上抹殺すべく世界の僻地への転勤を転々とさせる。正義も何もないゆがんだ人間の欲望のぶつかり合いだ。挙句には多くの犠牲者を生んだ大事故を起こすこの会社。作者は特定の組織や団体を描いているのではないとまえがきしているが、だれでも想像できるだろう。

 いま、経営危機に陥っているナショナルフラッグの会社の経営陣は、さぞかし高額の給料を得ているのだろうか。相変わらず。アメリカの自動車会社の社長が会社の更生を政府に願い出る時でさえも、会社の社長専用飛行機でワシントンに乗りつけるというこの感覚と同様だ。

 この段を書き始めたのは、昨日の紅葉のメールからなのだが、その二人の行っていた紅葉の場所が栃木県と群馬県からだったこともあり、自然と人間の工作物との違和感がふと頭に浮かんできた。

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