徒然草−日々思う、あんなこと、こんなこと。−
 


*三百五十段*<本物とは>2009.10.25

 久しぶりに、クリュイタンス指揮&パリ音楽院管弦楽団のフォーレ「レクイエム」を聴いた。録音自体は半世紀前のものになろうか。11年前に聴いて以来の聴取ということになる。懐かしいという思いがこみ上げた。当然ながらバリトンソロのフィッシャー・ディスカウの歌声が心に響いた。音色は明るいのに、鎮魂ミサ曲の雰囲気を過不足なく表現している。オペラ歌手のような大げさな歌い方ではなく、抑制された中に熱い心を秘めた歌唱だ。

 クリュイタンスの指揮は当時から絶賛されていたものだ。いま、聴きなおしてみると至極まっとうな、しいて言えば熱が低いか・・・とも思えた。

 フォーレの作品だとやや上品さが先に立つのだろうか。肺腑をえぐるような響きの演奏が少ない。安全運転を目指すか、極限の運転をするかのどちらかしか選べないような気がする。そしてよく言われていたのが、フランス人の作曲家の作品はフランス人の演奏が素晴らしいという、あまり根拠のない言葉だ。グローバル化が進んだ現在では声高にいう人も少ないのだろうが、何十年も前にはそのような論調が音楽評論の主流だった。ミュンシュ指揮のパリ管弦楽団のレコードが発売された時はその演奏が絶賛された。ブラームスの交響曲第1番。その時の評論には、ドイツ音楽の表現には明るすぎるというオーケストラへの注文もついていた。

 ベートーヴェンはドイツ人の演奏、フォーレやドビュッシーはフランス人の演奏、ファリアはスペイン人の演奏、ドヴォルザークはチェコ人の演奏・・・これはあまりにも短絡的だと思うのだが・・・となると日本人はどこにも入れなくなる。われわれは「本場」とか「本家」とか「元祖」とかの文字に弱い。権威や伝統を疑いもなく信じてしまうのは、鎖国と明治維新の相乗効果か、はたまた太平洋戦争の後遺症か、島国という地理的条件から来るものか。

 国民性や民族性というのもおそらく確実に存在するのだろう。それでも音楽には国境がないという言葉もある通り、「音」という媒体をとおすことで民族を超えた共感が生まれるといのも事実だと思う。美術にも同じことがいえようか。葛飾北斎、安藤広重はゴッホと並んでもその存在はかすむことはない。音楽だと、作曲と演奏と聴き手という三者が存在しないと成立しない芸術であるがゆえに、絵画よりも世界に伍するということは難しいかもしれない。

 世界に羽ばたいている日本人の演奏家といえども、録音でいえば、欧米の大手の会社が製造する音盤の中で、ベートーヴェンやブラームスの演奏で評価されるのは難しいようだ。音楽だけに限ってもこんな状況を思えば、世界中の人や国が価値観を同一化するなんていうことは困難の極みだろう。

 少なくとも、中身の伴わないものへの、「崇拝」はいい加減にやめたいものだ。高価なブランド商品が景気の低迷で売れ行き不振なようだ。この低迷する経済状況を耐え抜いて、本物を見極める力をつける一つの契機にしたいものだ。とは書いたが、政府が初めて公表する「貧困率」・・・この数字の高さを思うと耐え抜く気力もなくなりそうだ。

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